2011年8月28日日曜日

聖者と主義者の違いはどれだけ?


貧しい人に食べ物を施すと、私は聖者と呼ばれる。

貧しい人にはなぜ食べ物がないかと問うと、私は共産主義者と呼ばれる。

  ローマカトリック ドン・エルデル・カマラ大司教 (ブラジル)



フェアトレード葉書 より
教会の中にいるだけではなく、外に出て実際に行動、運動に参加。

赤い大司教と呼ばれたカマラ大司教は、のちの「解放の神学」の先駆けとなった人の言葉。



まだ小さかった頃好きな番組に NHKの海外特派員報告 がありました。


家庭環境もあり教会に通い、高校大学はミッション系。

教会に集う人たちはみないい人たちばかり、だけどなぜもっと社会のことにかかわらないのか、この中は別なのか、もっと行動すべきではないのかなどといろいろ感じる。


そんな時、宗派は違うけれど行動する解放の神学を知りました。

今では、いろんな運動の形態があり、いろんな条件の中で様々な運動があることも受け入れられるようになりました。 いろいろありました。



この言葉、ごく自然、素朴な疑問じゃないでしょうか。

マザー・テレサだってこんな気づき、発想から始め、批判も受けたんだろうなぁと思います。

2011年8月25日木曜日

1-15-14 トタン屋根の下へ

線路沿いに今しばらく歩き、いよいよトタン屋根の下へ。
(後から思えば)まだこのあたりは道の両脇にお店が並ぶほど道幅がありました。
その中の一軒。雑貨屋で教頭先生にオルギンドンゴイを見つけてもらって一本購入しました。

Nガイドの話では「そんなに珍しいものではないですよ」ということだったけれど、いざ捜してみるとホテル近くのウチミという大型スーパーにはなくて、ナロクのおみやげ物やさんに、握りの部分に彫り物のある牛の毛のものが700ケニアシリングであっただけ。



そのときはキベラにお金を落とすつもりだったので買わなかったのですが、いよいよキベラだし、話しより捜すのに大変なもののようなので、このお店の物をもらうことにしました。
ここのは、権威の象徴ではなく、蠅などを追い払う実用品。値段は500ケニアシリングだったかな。
気もせいていたし、レシートのでるようなお店ではないし、これからいろいろある時だったので今となってはうろ覚えですけど。
これはエナイボルク村で手に入れた権威の象徴クラスのもの 毛はヌーのもの

2011年8月22日月曜日

弔い 物事はいつも突然変わるのかもしれない いっぱい考えて準備していても、決まるときはそんなことにお構いなしに突然動くのかもしれない。

  これは持論だけれど、ある日ある時突然いなくなる、(今日の話の場合は突然死んでしまうというケース)それは本人にとってももちろん心残りのことだと思うけれど、周りの人にとっても悔いが残り、理解できない、受け入れられない状態がずるずると続いてしまう。
そうならないためにも あまり長期間になると別の事態になるので、そうだなぁひと月とか二月くらい、少し大変な思いをするくらいに寝付いてあげると、その間に周りの人も悔いが残らないように、してあげたいことができ、心の準備もできると思います。
私自身の体験でも、前触れもなく突然というのはほんとに辛い。トラウマとなっていつまでもいつまでも引きずってしまいます。また同じことが起きるのではないかと怖くてたまりません。 立ち直れません。次へ踏み出せません。

私の太鼓仲間、突然の愛する子の死。そのあまりに突然の死による深い悲しみが彼女の肉体をも変化させ、精神を病んでいる人がいます。
今彼女の具合の悪いのは、なくなった子どもにとっては弔い、残った彼女にとってはその死受け入れていく段階を踏んでいるんだと思います。

彼女にとって余りに突然のことで 気持ちの準備 受け入れる時間がなかったと思います。
少しの期間でも 病み寝付く間があれば、死の前に準備 気持ちの整理 受け入れる 準備ができたのかもしれません。
でも、どうも突然死のようなこのケースではその準備期間がなかったから今その段階を踏んでいるんだと思うんです。

それをきっかけとして鬱の状態になり離縁したのが2年前。そのきっかけとなったお子さんの死はそれ以前。
正確な年数はわかりません。でもいずれにせよもう何年もの間彼女はお子さんの死を受け入れられないでいます。


彼女は 心の方はとぎすまされ、外からの刺激に過敏とも言えるほど反応、影響を受けるようになったのです。
彼女は何年自分を責めるようにして毎日毎日を暮らしてきたのか。
彼女の生活、人生には今に至るまでずぅっとこのこと、特に子どものことが大きく影響を及ぼし続けています。
この深い悲しみ苦しみが、具体的に脳の形を変え病気を発症させてしまうほどのものでした。
そのことが直接に、服薬の副作用で間接的に肉体も、体の反応、症状としていろいろなものを呼び起こしました。

今彼女は突然亡くなってしまったかわいい子の“死”を、後先になってしまったけれど 受け入れる過程を踏んでいます。
これは辛くても彼女自身が歩み受け入れていかなければならないこと。でも仲間としてこれからも力になれるよう努めます。

それにしても親 特に母親の愛情の深さ強さよ

2011年8月21日日曜日

1‐15‐13・3 ビューポイント どうしてここだけ高いの!?

どうしてここだけ高いんだろう。
今下ってきたところの最後の高まりなのか。

盛り土? ここだけが見事に高台で、ビューポイント 本当は人工物かとも思ってしまう。

でも切り下げられたところもあったし。




たまたま高いところがあってそこに線路を引いたの
かもしれない。
日に何本かの列車 運よく走っているところに遭遇
あんまり走らないからぎりぎりの所までお店が出せるのかなぁ


星月夜


今 第24回全日本高校・大学ダンスフェスティバルを視聴していたら、アナウンサーが作品紹介の時に‐ほしづきよ‐と紹介していました。

え!と思わず画面を凝視してしまいました。

そんなぁ!そしたら解説の人も同じように‐ほしづきよ‐と。





私ずっと “星月夜”を せいげつや と言っていました。

 冬の夜、高山。
寒さで空気までもじっとしている中でくもりひとつない漆黒の夜空に臨む星と月 というイメージで。
 
違うのかもしれないけど、響きとしては私の言い方の方が素敵な感じがするけどなぁ。

2011年8月20日土曜日

1‐15‐13・2 ビューポイント背面

この左下がプライマリースクール  子どもたちが
このビューポイント・線路は、ここだけが高くなっていて、今向いているトタンの瓦の波と逆の方もガケになっています。
私が今立っているところの、ちょうど真後ろには、日本でいえば小学校に当たるプライマリースクールがあるようでした。
ちょうど休み時間だったのかな。
校舎とは別棟の、校庭のはずれの建物、お便所なんでしょうか。
同じ服装の子どもたちが並んでいました。
にぎやかに順番待ち。
友達と一緒にいるだけで何でも楽しくて仕方がないんでしょうね。

1‐15‐13・1 ビューポイント崖下

この、高台になっている線路のすぐガケ下には、ゴミもしかしたら糞便のはいっている黒いビニール袋が投げ捨てられ積み重なっています。

早川千秋さんの「アフリカ日和」に収録されている写真の頃よりもずっと家々がガケ下まで迫ってきています。

1‐15‐12 ビューポイント・線路の周り


この線路の周りは、こんなものでも売り物になるの!というものを並べた店がぎっしりと並んでいます。
空いたところはちょっとでも無駄にしないとばかりに。

売られているものは、たとえばラジカセのケースの“一部”とか、そんなに短くても何かの役に立つのと思うほどのコード類・ハーネスだとか。
さびてこそいないけど黒く油がしみこんだ鉄製のパーツの、そのまた一部とか。

1‐15‐12 キベラ ビューポイント からの眺め

ビューポイント

確かに見晴らしはいい。

ずうっと向こうの方まで、とにかくトタン屋根がびっしりと敷き詰められているのが見渡せます。


これからこの下の方、トタン屋根ばかりで道がぜんぜん見えないところへ入っていくわけです。

これからもっともっと下、 低いところに入っていきます。

1‐15‐12 ビューポイント到着

先導に従って黙々と歩き、キベラ マゴソスクールを訪問する時には必ずよるというビューポイントに到着。

といっても“展望台”という代物ではなくて、鉄道の線路が引かれている周りより高い所というだけ。







1ー15ー11 燃料・炭


調理の時の火力としては“炭”がポピュラーなようでした。

薪も使うし、そんなに高くない値段で(ボンベの話をしてくれた人からみて)プロパンガスもあるんですが、プロパンの場合は最初にボンベを買わなくちゃならなくて、それが2,500~3,000ケニアシリングかかるので、一番普及しているのは炭ということになるようです。

この炭。
多くのところでは、業務用のトマトの缶かリッツの缶くらいのサイズに小分けして打っています。(この写真のお店では袋詰めも並んでいます。他では一山幾らで積み上げているところもありました。)

日本だったら売り物にならないような、欠片の炭でもここでは十分商品になっているんです。
ある意味、徹底しているというか、無駄なものはない、捨てるものはないという社会なんですね。7

1ー15ー11 衣類 

こんなものでもまだ商品価値があるの!とびっくりするような中古衣類も道ばたで売っています。


棚に並べられているのなんか立派なもの。

強制が生み出すもの 対立

  それはそれで取捨選択の力が必要になるけれど,情報はいろいろな立場、情報源に耳目を向けていなければならないと思っています。

 表現の自由。
意見表明の自由、容易さ、多様な意見表明に対する保障、寛容さが必要だと考えています。
 
  今に始まったことでも、このことだけでもないけれど、5月に大阪府議会で採決された「君が代起立強制条例」は反対があっても議会内での多数を持って強行してでも成立させると言っていたので予期していたこととはいえ、寛容さを忘れた日本、ほんの何十年か前にその弊害を多大な犠牲をはらった上で学んだばかりなのにと暗たんたる思いになりました。

その時に、「こういうことをするからこそだめなのよ」とか「こういうことが“いじめを生む環境”を作るんだ」こんな「強制では、苦痛を生むだけで、愛国心は生まれない」こんな「原理主義的な発想・行動は危険だ」ということをすぐ考えました。 
その後もずっと気になりながらも、思いが形にならないでいました。

ここで話は最初に戻ります。一つの情報源だけではどうしても情報の量も質も限られてしまうので常に周りにアンテナを大きく張るように心がけています、。その中の一つの新聞で君が代条例廃止を求めるアピール呼びかけが行われているということが扱われていました。社会的著名人ではありませんが、私も態度を明らかにしておきたいと思いここに立ちます。
強制では愛国心は生まれません。寛容さを忘れた人間に真の平安は訪れません」と。

2011年8月15日月曜日

エピゾ・コンサート


この写真 88日のエピゾ・コンサートの時のものです。

 そう。たくさん撮らずにいられなかった晩のものです。


 
この日は4人による、演奏とダンス。


 演奏ももちろんよかったけど、観客も巻き込んでのダンスは盛り上がりましたねぇ。


 その中で、昨年秋に続いて2度目のセクバさんのジェンベの音がすごかったんです。


 昨年のコンサートでは、サンバン(ケンケニではない!)でベースリズムを叩いていて、ジェンベの演奏は印象になかったんですけどね。

セクバ・ケイタ さん
 後で聞いたら、山羊皮ではなくて、牛の皮。薄めの牛の皮を、張りに張っていたようです。

明るくて張りのある音がよく飛んでました。
 

1‐15‐10 キベラの機織り工房


キベラでの最初の訪問先である機織り工場到着。

 ここには代表の男性のほかに、糸を紡いでいる女性が4人いました。

68坪くらいの土間に、木製手動の機織り機が一台。
 これはこの男性が使っているようです。

“工場”という言葉のイメージとは少し違います。

ここで作られている品々は、脱脂していない黒と、白というよりは灰と言ってもいいほどの色目の羊毛のショール。ハーブ染めのマフラーなど。



ところで、このショール。

 ここでは、ノーブランド品として2,000ケニアシリング。それがお店に納品されてタックがつくと7倍もの値段になるのだとのこと。注

びっくり。



マゴソスクール(キベラ)でいろいろ買い込むつもりだし、今日はまだ始まったばかり。最初から荷物を増やしたくなかったので、Nガイドにお願いして、品物をもらうだけだけど帰りにもう一度寄ってもらうことにして次へ向かいます。



注 ほかのことを調べているとき、偶然このエピソードを扱った文章を見つけました。

  そこでは7倍ではなく、70%という数字が紹介されていました。

今どちらが正しいのか確かめるすべはありませんが、いずれにしろ大きな数字です。

2011年8月14日日曜日

1‐15‐9  初めての 子どもとお年寄り


行きかう人の服装は私たちと変わりません。

 民族衣装(的)な身なりの人は、キベラへ来る道中よりは幾分多いような気がするけれど、人数的にはあまり多くありません。

そのあまりいない人(女性)の衣装も、カラフルで鮮やか というよりは、多分に褪せた色合い。

子ども(学齢前の幼児)が大勢います。その子どもたちは、暑くないんだろうかと気になるようなキルティング様のジャケットを着せられています。

夜間は冷え込むのでしょうか。そしてそれに見合った暖房がないのでしょうか。



すれ違う人たちの年齢層はこれまでで一番幅広くなっています。

小さな子供たちがナイロビで初めてなら、お年寄りもここキベラで初めて見かけました。

2011年8月13日土曜日

1‐15‐8 ただ黙々と歩く


いよいよキベラです。

周りの雰囲気も変わりました。


迎えに来てくれたリリアンさん達からも、Nガイドからも何の説明・話もありません。こちらの方からも何も聞かないし、話しません。

ただ黙々とリリアンさんについて歩きます。

 行き交う人の中から、ダブルの背広の恰幅のいい男性が二人現れました。
私服の人が、握手して何か話しています。

 後で聞いたら、この地区選出の議員だそうです。

1‐15‐7 えッいつの間に! さすが私服


「えッ!! いつの間に」と思わず思ってしまいました。
 
 互いが紹介しあっているとき、突然目の前にその男性たちは現れました。

 もうびっくり! 

全然気づきませんでした。 

 こんな現れ方をするということ自体が“私服”と言われるゆえんなんでしょうね。

1‐15‐6 ついにリリアンさんと


左から男性と女性が近寄ってきました。

この二人が迎えに来てくれた人のようです。



Nガイドを介して紹介しあいます。

男性は自分を指さしながら表情豊かに「教頭先生 教頭先生!」と。

物静かな感じの女性。そう、この女性がリリアンさんでした。



リリアンさんの第一印象。話す感じは少し低めの声、穏やかな口調。

小柄というには少し背が高く、すらりとしたスタイル。

バリバリと物事をこなしていくというより、物事に動じない芯のある人という印象。

1-15-5 ここが入口 この先がキベラ


この道にも“店”が。

と言っても布を広げただけの。 

広げた布の上にジャガイモなどの野菜を並べているだけ。

 かけらと言ってもいいくらいの炭の小片を少し大きめの缶に詰めあげて置いているだけ。

 向いた皮が山になっている脇で、七輪のようなコンロで、白い種類のトウモロコシを焼いているお店。

靴下だけを並べているお店もありました。
この靴下、とにかく衣類のリユースが徹底しているケニアなのでこの靴下もどうなのかなぁ。
 少なくとも、日本で目にするような新品の並べ方、並んでいる品物のようには見えません。

降りていく道の左側は、グランドなのかなぁ。男性のグループがボールを蹴りあっている。


右を見たり左を見たり。そうして歩いていたら、“それ”は突然目の前に現れました。

ここに来るまで見通しが悪かったわけではありません。だから視界には入っていたはずなんですけど気づきませんでした。
 意識もしませんでした。

ここがキベラへの入り口。この先がキベラ。

これまでの道に比べると、細く傾斜もきつくなっています。水たまりも。

両脇に立ち並ぶ屋台の密集度はこれまでより格段に高くなっています。

1‐15‐4 キベラは高台に囲まれて下がった所


キベラへ向かって下っていく道(振り返って)
道路を横断する。

今横断した車の走る道は、私たちが歩いていく土の道としばらく並行して進み、その後右方向にゆるくカーブして右上に離れていく(ように見える)

本当はこちらの道がどんどん下がっていく、と言った方が正解のようだけど。


どうやら、キベラは高台に囲まれた低地、谷の底の方になるようだ。

2011年8月11日木曜日

F 生きていればこそのこの痛み

今久しぶりの  生きていればこその痛みを味わっています。

何年ぶりでしょうか。
恋い それもうまくいかなかったときのこの気持ち。

私、辛いけどこの感じ嫌いじゃありません。この切ない気持ち胸のうずき 嫌いじゃありません。

ただし、成就しないことがいいんじゃなくて、生きているというのが実感できるということに関してですが。

私、恋いとコーヒーは 熱くて濃いものが好み。 味のタイプは 苦いタイプが好みなんです。
今十分苦みを感じています。

今、高ぶった分ひどく落ち込んでいます。  落ちつきません。
暑さのせいもあるのかもしれないけど、頭が痛いし食欲がありません。

先週一週間は今思い返すと怒濤の一週間でした。
寝不足になるくらい大変だったけど生き生きとしていた一週間でしたね。
週末から週明けの数日間は、まさにピークに上り詰めてそこから一気に奈落の底に落とされた感じでした。

その数日間を・・・
土曜日
午前 ヨガの教室
今の気持ちの高まりは、一通のメールから始まり、直接会うことはもちろん電話で声を聞くことも
ありませんでした。
ただひたすらメールという手段で話を聞き話を聞いてもらいました。
太鼓の仲間だし前々から知ってはいました。
だけどただそれだけ。今回のことでも改めて会うこともなかったし。
だから全く持って、肉欲から出発したんではないと言うことに気づいたんです。
それに気づいた後、このことを忘れないように書き留めなくっちゃ。それまで忘れないように忘れな
いようにと思ってこの日のヨガには集中できませんでした。


ヨガ。特にこのハタヨガ、そして先生。私にはちょうど合っていたみたいで、通い始めた頃は、
朝起きるだけでも辛かったのが、調子がよくなるのが自覚できてからは楽しみになりました。
歌やサックスにもプラスになりました。
いろいろなアーサナーももちろん良いんだけど、呼吸だけでもすごく違いを感じました。
Fさんにとっても、この呼吸法だけでもずいぶん違うんではないかと思いました。


午後
セネガルの太鼓 サバール ワークショップ
Fさんから主催者のRさんは友達。よろしく と伝えてと伝言が。 どんな人かと思っていました。
そしたら私も前にあったことのある人でした。 参加者も知っている人が大勢いました。
サバール。もちろんソロ楽器としてもいけるものだけれど、ジェンベなどに比べるとより合奏や歌伴
に合いそうな感じがしました。


オリッシーダンス シタールとタブラのセッション
演奏。特にシタールは リズムとかビートとかではなく、波、 ウエーブ うねり のようなものを感じ
ました。
タブラ シタールの二人。 目でタイミングを取り、呼吸を合わせて演奏。ソロのバトンタッチ。 
ジャズプレイヤーのプレイを聴いているみたい。  シタールはジャズにあうと改めて感じました。
ディネーシュ・チャンドラ・ディヨンディさんのタブラも良かったけど、シタールの斉藤勇さんがすごく
良かった。 
オリッシー ダンス 
ラフール・アチャリアさんは男とか女とかを超越していましたね。
体つきもそうですが、顔の大きさ(小ささ)身体との比率が日本人とはぜんぜん違っていました。  
不思議な感覚 トランス状態に少し足を踏み入れたような感じがしました。


会場となった木揚場協会は暑かった~。
足下は畳。ぶかぶかに波打ってとまではいっていませんでしたけど畳ごとに高低差がある上に
石や板の床と違って柔らかく、縁もあって勝手も違い踊りにくかったのではないでしょうか。 
もう少し条件のいいところで踊ってもらえたらよかったし、それを観せてもらいたかったと想い
ます。
ラフールさんの、ライトに照らし出されて光輝く汗も美しく感じました。

日曜日
休むぞ(お昼まで寝るぞ!)と決めていたのにいつもと同じ時間に目が覚めてしまいました。
仕事に行かなくてもいい日なのにねぇ。

パソコン、メールソフトを立ち上げたら、Fさんからのメールが 何通も。 
送られてきた順に目を通すと、時と共に内容 口調が変わっています。
最終のものは、気持ち 決まりました 決めました というもの。  
女の人が一度ここまで気持ちを決めると変えさせるのは無理な話。
男性が怖い とまでなってしまってはどうしようもない

月曜日
午前 
車を運転しながら、考えるとはなしに 考えていると、とてもこのままではいられない感じに
なって、午後から休みを取ることにしました。
昨日の何通目かのメールをみてから 考えていたこと 話したいこと 話さなければならないこと 
メールくらいならいいか メールも出さない方がいいのか・・・

午後
献血センターへ。
6月の時は、ヘモグロビンが基準に達しなかったということでできなくて2ヶ月様子を見て今日この
日に。
あのころは支援業務の関係で、睡眠も不十分だったし疲れていたからだったんじゃないかと思っ
て。
だけど今日もだめ。もう一生できないんじゃないかと悲観してしまう。

予約したフラワーバスケットを取りに、H一輪による。
電話を受けてくれた女性は外にでていて女主人がバスケットを作ってくれる。近所の知り合いが
ペットを連れてきていて、私にお花の感じを聞いたり、その知人と話をしたり忙しそう。たまにしか
頼まないけれど、いつもの女性の方が印象はいい。

母の誕生日 フラワーバスケットを持って久しぶりにHの里に顔を出す。
一段と小さくなったように感じる。顔も細く痩せ、鼻も薄く堅くなったように見える。
ちょうどお風呂の後と言うことで布団に横になっていたが、姿勢を保つことができなくなっていた。
保とうとする意志もなくしていた。 体が不自由でも意志がしっかりしていればどれだけ違うだろう。


バウワウで エピゾ・バングーラ コンサート
疲労感があり少し気が重かったが、行くと約束もしていたので出かける。
会場のバウバウは非常に熱い。昼と夜の切り替わる一時でなのか風がない。
エピゾさんが盛んに “寒いですねぇ” と繰り返していた。アフリカみたいとか、アフリカはこんなに
熱くない(じめじめ湿気)とか。
汗がすごい。衣類がべったりと身にくっつく状態。

群馬との県境に近いところからこの海沿いまで、週のはじめの平日だし、まさかいるわけはないと
思いながらもついFさんの顔を求めて会場を見渡してしまう。

会場には知った顔も大勢。 ただ私が覚えているほどにはこちらのことを意識している人は少ない
だろうけれど。
Fさんはここにいる人たちと私よりもっとひたしいんだろうなぁ。
場所を選んで腰を下ろしたせいも大きいけど、いい角度でプレイヤーを望めました。
写真はオッケーということでたくさん撮らしてもらう。
そんな気ぶんでした。

火曜
午前
辛い気持ち 感情が 一段と強くなっりました。
じわじわ と。

ここのところの猛暑が今日は一段と強烈なようで熱中症のような気もするけど、頭が痛い。 
とても仕事をしていられない。
どうしたらいいのかわからない。


水俣集会に参加。
私と新潟民医連を結びつけた事柄でもあり、すべて解決、なにも問題なしという到達ではないけれ
ど、とにかく和解したということで一区切りなので。

患者さんの話、弁護士の話、運動に関わった青年たちそしてベテランの話などがありました。
なかで特筆は関川先生の話。もう60も後半の年齢だと思うけど、この数十年ぶれることなく患者と
真実のためにがんばってきた先生。
私も一時関わらせてもらったけれど、そんな比じゃぁありません。

志半ばで病に倒れた白川健一先生のことを思い出します。
この人も偉い人でした。人間として尊敬します。
手を換え品を変え。飴と鞭でいろいろ圧力があったと想いますが全うしましたものね。

水曜日
これ以上困らせてはいけない  思いを伝えたい  読んでもらいたい  気づかないでほしい
いろいろな気持ちが交錯。
とにかく気持ちを整理しておこうといろいろ思いを巡らせる
朝から暑い。今日も頭の痛みは続いている。


結局年休を取り新津美術館に。
ここは規模としては小さい美術館だけれど、子ども 絵 本 をキーワードにしているようで、たび
たび絵本原画展が催されています。
この規模の美術館だし、特徴を出す一つのやり方だと思 います。
今日は 世界の絵本作家展Ⅲ・絵本の世界へ旅しよう の企画展です。
以前から観ていた絵(作家)初めて知る作家の作品が約200。絵本作りの変遷、星の王子様の
初版本が展示されていました。

多くが、作家自身のことも知っているか、あるいは作家については知らなくてもこの絵は知ってい
るという展示でしたが。
「チリとチリリ」のシリーズの絵などの どいかや さ んが見っけもんでしたね。

別室では、常設展と非核平和絵画展(平和を望む世界の 子供たちと、広島原爆被災者の絵)も
観ることができました。
今日と同じ明日が来ますように というテーマで描かれた一枚が3・11の後ということでこの言葉が
心にしみます。

木曜日
辛さが一段と増してきました。
幸いこの週末はお休みが一日多い。
なにもしないでただ時間をやり過ごしたり、どこかへ出かけたり、わざと忙しくしていましょうか。

おつきあいしていく病気

(ガンは)長くおつきあいしていく病気に変わった
  
      厚生労働省「ガンと就労」研究班研究代表者
    高橋都  (独協医科大学準教授・公衆衛生学)

今やガン治療も進み、ガンの宣告イコール死ではなくなってきました。
ガンによっては5年生存率が50%を越し。早期発見適切な対応によってもっといい結果になっています。

どう戦うかではなく、どう快適に暮らしていくかの病気に変わったということなんでしょうね。

2011年8月4日木曜日

今日は日本で最初の住民投票の行われた日(1996・8・4)

今日は日本で最初の住民投票の行われた日(1996・8・4) です。

今朝もセミが鳴き暑い一日になりそうです。
あの暑い日々、そしてともに汗を流した仲間を思います。

テレビ放送の地デジ化への変更で、寝具脇に置いている視聴できなくなったテレビの代わりに点けているラジオの「今日は何の日」のコーナーで、ほかの歴史的出来事とともにアナウンサーが紹介していました。

他の歴史的なことに並んで紹介される。
その後の評価で、改めてそれだけのことをなしたんだなぁと感じました。

特に今年は福島原発事故で(神のことでもないのに)“安全神話”の欺瞞性が暴かれた年になりましたので一段と意義を増しましたね。

それにつけても、電力会社のやらせ問題はびっくり。
これだけでも大問題なのに、原子力保安院が黒幕にいたとはねぇ。

政府の「国民を心配させたくないので発表しませんでした」発言には唖然!

情報が足りない!から心配。 疑心暗鬼にさえなってきているのに。
どうしょうもないことが出てくると、遅れ遅れで「実は・・・」とでてくる。
信頼を失う悪いパターンそのものですよね。

2011年8月3日水曜日

また やっちゃった  冷凍庫が閉まらない!

この“また!”というのが困ったところなんですが仕事を終え帰ってきて、配達されていた生協の冷凍食品を見て思わず またやっちゃった と思いましたね。

元々、食品庫に缶詰や乾物がそろっていると安心。そのほか何でも 在庫1 でそろっていると安心するタイプ。 

たまにお店に行くことはあるけど、いまはほとんど共同購入。(買い物は買い物で楽しいですけどね)

そこへ来て、うちの冷蔵庫は何年も前の冷凍庫が野菜室よりも小さいタイプ。省エネのことも考えて買い換えればいいんでしょうが、安いものじゃないし壊れでもしなけりゃこのままかなぁ。

ところで食事どうしてます?

物欲の強い私。限られた収入で家のローンという大物に対しているので一点豪華主義でやってます。

文句を言う人もいないし、たまにおつきあいで外食する以外は自炊、お昼はお弁当。

二人の収入を合算して組んだローンを、一人の収入では早々に行き詰まるだろうなぁ、でもやってもみないで最初からあきらめはすまい、やれるところまでやってみよう、と今日までがんばってきました。

二人とも仕事をしているんだから外に食べにいってもいいんだという彼女の考え。それもそうかなぁ、と思いました。子ども達はもちろん喜びますしね。

そこをまずカットしました。
違うもんですねぇ。未だにこうして粘っています

逆に言うと、あのころこの発想でいたらとっくにローンが終わっていたという事ですね。

物欲のせいで 消え物(舞台だと食べ物など使うとなくなる物をこう言います)からカットというところですか。

まあ、たばこは吸わないし車を運転して帰って来なけりゃどうしようもない今のところだから飲みにも行かなくなったし、手を入れるところといったらこれくらいしかなかったともいえますが。

買い物は前より慎重に見極めるようになったと思います。でも結構大物を買っているかなぁ。気にいって買うと大事にするし長持ちかな。

倹約倹約とばかり言っていたら、生活していても楽しくありませんもの。人生楽しまなくっちゃ!

私を形づけた 勤務形態

 どんなお仕事をしているんですか?
こう聞かれるとほんとに困ってしまいます
どこにお勤めですかは一言で答えられるんですけどね。

私は、診療所配属が長かったものだからいろいろな業務を担当しました。
まあ、何でも屋ですよね。



羅列で書き出せばあれもこれもと書けるのでしょうけど、そうするとそれの説明がまた必要になるので今日のところは書かないでおきますね。



専門の資格も持ってるし、仕事だってできない訳じゃないと思っていますけど、個人の思い 希望と組織の都合は別物ですからね。


元々知りたがり屋なのでそれはそれ、いろんな事を体験できたことは感謝しています。

振り帰って
これがもし、病院配属で専門 専属で業務を任され担当していたら、よく言えば専門的 悪く言うと狭い視野で融通の利かない官僚的な人間になっていたかもしれません。
周りからも、自分自身でも面白味のない人間になっていたかもしれません。

さて本題
私にとってこのような仕事の仕方をしてきたということは、何年一生懸命つとめても実績・経験年数・職歴にはならないということです。
あくまで支援ですから。
何年やろうと、選任の人と同じテーブルにはつけません。 
それが延々と何十年も続くことによって、精神は屈折し、主張しない性格になってしまいました。


昔演出が
「あんまり自己評価の高いのはだめだけど、自己評価の低いのもだめだ」ということを言っていました。


ほんとはこんな私じゃない
と思いながらも、自分に自信がもてない、強く要求したり主張できなくなってしまいました


最後に。
今どこに配属になっているかだけ。
年齢のこともあると思いますが、一時体調を崩したこともあり本部組織部に配属されています。
“本部? 組織部?”
わかりませんよね イメージわきませんよね