2014年7月16日水曜日

「100人の子供たちが列車を待っている」 食に事欠く軍政下 食糧援助ではなく映画教室


 

チリ軍政下、毎日の食にも事欠く生活環境の中で(直接)圧制に対するのでもなく食料を援助するわけでもなく“映画”の教室・ワークショップを、映画というものをこれまでただの一度も見たことのない子(わざわざ劇場で手間も暇もお金もかけて)がほとんどという地域で開催。

このような取り組みがあるということは知っていました。それが、まさかチリで(も?)されていたとは

以前“アルピジェリ”を巡っての、制作する人たち 手助けする人たち 警戒する人たちのことを知りました。  その時と同様、この取り組みにも教会が大きくかかわっていたことを知り、私が直接何かしているわけではないんだけれどちょっと誇らしい。

 

この映画教室・ワークショップに通ってくる子どもたちにとって、生活苦 デモ 警察 死体は日常であり生まれたときからの光景。そういう光景、環境に生まれ育ち、それが当たり前の風景、離れたところの人間には簡単に思い測れない感情(生活していくときの制限でもあり糧でもあるという)。基地がいいとか悪いとか、それだけで決められない生活、生まれた時はもう基地があった沖縄の人たちのことを思い出してしまいました。

 

今回入手したDVD・映画そのものは画面も暗くピントも甘めでフレームもグラグラ、音なんか映写機の具合が悪くてフィルムのサウンド部分がスムーズに受光部にあたっていない・走っていなくてワウワウしてしまったときみたいです。そして、そもそもドキュメントされていた子どもたちのワークショップでの“映画作り”の取り組みの到達も決してどこかのコンクールに出展するというものではないと思います。

時の政権によって21歳以下には上映禁止という措置が取られたのは、その結果としての作品そのものに対しての恐れ以前に、半年間にもわたり映画・映像の工作、集まること一緒に作業・遊ぶことを子どもたち、そして子供たちを通じて親・周りの大人も経験してしまった!ということだと思いました。作品の出来以前にこうして、みんなが集まる、一緒に行動する、口を開きだすということを恐れたんじゃないかと思いました。

 

 アルピジェリの時もそうでした。限られた生活の糧として作業にかかわりだした人たちの意図しない結果。映画作りのために現実を改めて視始める、それによって気づく事、作品を作り上げようとする過程で高まる想像力・計画性、協力・連携。圧制者の側から見ると脅威に感じると思います。

本人はそのこと(行為)がどういう意味を持っているかわからないでいても、日常にあること・見ていること・聞いていることをカメラにむかって話し出しています。これは時の軍事政権にとっては隠しておきたいこと。事実を知られたくない、隠しておきたい、口を開いてもらいたくないと思う人の方からは怖いことだと思います。結果そうなっていますし。

その後の歩みも決して一本調子に平坦なものではありませんが、大きな犠牲を強いられ圧制に苦しんでも必ず民衆の側が残る、題名の思い出せないあのイタリア映画の中の一言「民衆は弱いけれど国は倒れても民衆は残る」ですよ。

 

ところで100人の子供たちが待っている“列車”とはリュミエール兄弟の「列車の到着」のこと。これはまあわかるとして、ラモリス監督の「赤い風船」が出てきたのにはちょっとびっくり。私が小さいとき 初めて見た洋画作品でもあるこの映画、やっぱり何か持ってる。

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