2013年11月4日月曜日

民芸品が“チリのアルピジェリ”に


先日の大島博光記念館(長野)の“アルピジェリ”について。

 

私とチリのかかわりはたぶんに形から入ったところがあります。

パブロ・ピカソのゲルニカ誕生のいきさつ。

ケネディのことを知っていく中での鳥の歌にまつわるパブロ・カザルス。

そしてパブロ・ネルーダ―。

 

1960年代70年代と言う時代もあったと思います。

忘れない、こだわり続けるというのは大事な事だと思います。

だからこの40年という月日の流れた今年、長野まで観に行ったんだと思います。

選挙で成立した政権を軍事クーデターで倒してしまうなんてことはそもそも許されることではありませんから。

 

どの作品も深い意味を感じましたけど、この日観た中で一番強烈に感じたものは本来男女二人で踊る“クエカ”という名前の踊りを、夫・恋人を奪われた女性が一人で踊り抗議の想いを表したと言ういきさつを模したアルピジェリでした。

報道でこの模様を目にし知ってはいました。それがクエカだったんですね、話がつながりました。

 

この度触れることのできたアルピジェリの数々、出来にバラツキはありますが全体的に技術的なレベルは決して高いとは言えません。

社会的 経済的にも様々な人たちが作品を作っています。

それがなぜ“チリのアルピジェリ”として一つの世界にまでなったのでしょうか。

私が思うに、この一枚一枚を作った人()、その人たちが作るに至るまでのすべての事・人とのかかわりが“気”となってこもっているからではないでしょうか。

もともと厳しい暮らしの人たちもいたでしょう。軍事クーデターによって家族を奪われ、生活の糧も奪われて作るようになった人もいたでしょう。

もともとは、このアルピジェリを使って軍事政権に戦いを挑もうなんて思って作り始められたものではなかったと思います。意識してこれを手段にして政治的なことを訴えよう・ 運動しようと思って始められたことではなかったと思います。

様々な迫害・締め付けの中でせっぱつまってのことだったのではないでしょうか。とにかく、少しでも生活のため、が始まりだったのかもしれません。

専門の“芸術家”がテーマを考え想像し創造したのではなく、市井の人が自分の体験したことを題材にしてそれを具象化したのでストレートに私たちに伝わってくるものになったのではないでしょうか。

もともとあった民芸品が新たな性格、意味を持ったと言うことですね。

それをチリ以外の人々が購入することで、チリで起こったこと起こっている事を知り、生活 生き続けていくことの支援になって行ったわけです。

 

最初は、できもよくなかったんでしょう。作品の持つ意味も理解されていなかったんでしょう。一枚2ドルだったそうです。

でも軍事政権は、いや軍事政権の方が先にその意味を察知して国外への持ち出しを厳しく罰したのだそうです。

だいたいこういうことではよくあるパターンですよね。相手の方がその意味、重要性にいち早く気付くというのは。

遅ればせながら私も気づくことができたというわけです。感謝

忘れません

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