2012年6月28日木曜日

ここまで自民党の主張を丸呑みしたんだから一緒になっちゃえば!

民主党。  ここまで自民党・公明党の言っていることを丸呑みしたんなら、もう民主党の看板を下ろして自民党に入れてもらったら!


 選挙の時、自民党とは違うことを訴えたし、変わると思わせてくれたのにこの体たらく。

 そもそも自民党が庶民増税をしたがっていたのに、民主党が手を汚してくれたんだからさぞ喜んでいるでしょうねぇ。

 人数的には、小沢議員の側が少ないので、小沢議員サイドが出る出ないと注目が集まっているけど、正しくは自民党とくっついた現執行部側が民主党でなくなるのが正しい形でしょうね。

2012年6月27日水曜日

一糸乱れずの素晴らしさ  ジェンベを初めて体感した違う“もの”どうしが創り出しえる素晴らしさ

つい先日のサックスのレッスンの時「吹奏楽の時に全部の楽器がぴったりそろうまで(曲の練習の前に)調律だけで一時間もかけてするときがある、その間パーカッションはやることがなくて大変だ・・・」なんて話がでました。
 そのとき思わず「私はそういう世界から対極に行ってしまったなぁ」とつぶやいてしまいました。

 私ジェンベを始めるまでは、ぴったりと合って濁りがなくてすんだ音色が一番と思っていました。
 もちろんそれ以外の“音”、スタイルが存在していることは知ってましたよ。でも一番は澄んだ音。今思えばそれは西洋音階・音楽の発想ということだったわけです。
 この発想でいくと、楽器ごとの音域 音色の違いはあれど(もちろん個体差、鳴りの違いはあります。だから多くの楽器のなかに名器と言われるものが存在するわけです。)オーケストラとしてはぴたりと音が合っている状態、それが基本であり原則ということなんでしょうね。  

日本でも“さわり”と言う、わざと響かせて共振・共鳴させ濁(?)らせるのがあるけれど、始めてから約10年経つアフリカの太鼓たちはそもそもからして違っていました。
 同じグループの太鼓なのに個体差がすごく大きくて、こうまで音色が違うのか、違ってもいいのか!とびっくりしました。
 その楽器(グループ)の持つ音()がないわけではありません。それでもずいぶんアバウトなのかなぁ。当地ではもッとなのかなぁなんて思ったりもしますけど。
そういうベースはあるにしても、いざ演奏という時は、ピッチさえ合わせないでそのまま入っちゃうんですもの。最初のころは違和感を覚えるほどでした。
(使い込むうちに延びてきた皮を締め直すということはあります。私も時々します。しめている時に縁が避けたことがあります。それだけ皮が弱っていたということかもしれませんが。)
 ソロを取るためにわざと音を違わせるということもあるとはいえ、こういうのもあり? こんなんでいいの?   理解の範疇を越えていましたね。
 それに、わざといろんなものをくっけたりぶらさげたりして(別の)音を立てるんです。西洋音楽の感覚で言うと雑音ですよ。
 実際に演奏する時は、もちろんみんなと一緒にやるんだから、周り、相手のことをよく聴き視なければ成り立たないけれど、この 違い ずれ 時には雑音(?)が良いグルーブ感を生むんだなぁ。
 この うねり、このグルーブ感 を生むものは、各楽器、パートで演奏も違うし音色も違ううえに、あえてピッチを合わせないのが一番大きいのかなぁ。
 今言ってる「うねり」とは、音合わせのとき。たとえば何本かのサックスで音合わせをしているとき、合ってないうちは音が波打つ、うねって聞こえてくるあれですよ。
 もちろんどうしても欠かせないのはリズム感であり“ノリ”だと思いますよ。でもこの、音がワウワウとうねる方のノリはこれもあるのかなぁ。

 このこと。
人もいろいろあるよ  人もいろいろあっていいんだよ  につながっていると思いました。
 文化の多様性 人の多様性。 
いろいろあるよ いろいろあっていいんだよ 違いOK、あなたはそのままですでにOKなのよ  につながっていると思いました。
 そんな ふうに考える(考えられるようになった)私も変わったなぁと思いました。


追伸  今こうしていて、そもそも音合わせってどういうことだったっけ、わからなくなってしまいました。

2012年6月25日月曜日

“2012平和行進”歩いてきました。

“2012平和行進”歩いてきました。(2012.6.20)


 ここ数年どうしてもやりくりがつかず集会への参加だけだったので久しぶりの行進。

 外の催しは天候がとても影響します。
 週間予報で、台風4号がちょうど私の歩く日に最接近という予報が出ていたし、前の日が雨風のすごい天候だったので覚悟しましたよ。
 前の晩、シューズにはたっぷり撥水スプレー、雨具を用意して、荷物は用途ごとに皆ビニール袋に入れてからザックの中に。

 「日ごろの行いが悪いから…」と言われるかなぁ、なんて思いながら当日の朝を迎えました。
 そしたら、確かに道は濡れていて雨は降った。色の濃い雲で空はおおわれている。けれど台風4号はコースをずいぶん東寄りにとって、朝のうちは雨が残るけどだんだんいい方に向かうとの由。    今日は丸々一日の予定なのでお昼からは大丈夫なのかなぁ。

 処によっては大きな被害がでて人命も失われているので申し訳ないけれど、感謝すべき天候になりました。



 前からコースによっては都市間移動に自動車も使っていましたが、今回私の参加する「新発田~旧豊栄~阿賀野市・水原」は3つの街中を各1時間ほど行進、町と町の間は自動車での移動とのこと。

 参加者は、新発田が約50名、旧豊栄が15~6名、阿賀野市が30名弱。

 平日の日中ということもあり参加者のほとんどは年齢高め。どの年代も大変なご時世だけれど、中堅・地域でも家庭でも働き盛りの世代がほんとに大変なんだと改めて思います。(ビキニデーの時も同様のことを感じました。)
 子どもの参加はどこも0。これが土日で新潟だとだいぶ違うとは思いますけど。



 新発田の街中はシャッターの降りたお店が多く他所よりひどいと耳にはしていましたが聞きしに勝る“シャッター通り”。

 旧豊栄は昨年の行進参加者が交通整理・警備の警察と同じ人数だったというのから見るとずいぶん多い参加人数。これは、取り組みもよかったのでしょうけど、3・11の影響かなぁ。

 阿賀野市は思っていたより多い印象。団体も多く、中には30数年前に作られた旗を持って更新するグループもありました。

 ゴールの阿賀野市役所前の集会には役所の人も出てきました、今度巡回で原爆パネル展があるそうです。



 その夜一日行動に参加し歩いたわりには疲労感はあまり感じませんでした。
 ただ、この冬から感じている、(特に)左足底部のしびれ感と、行進の最中(ゆっくり目のスピードで歩いていると)つま先が上がらなくなるのには難渋しました。

 かえって何か担いで、すたすたと歩いていた方がなんともないんですけどねぇ。

 思えばこの冬場のまるまる車に乗る仕事を担当してたのが悪かったかなぁ。
腰(腰椎)の具合なんでしょうか。

2012年6月24日日曜日

あなたの明日がいい日でありますように  あなたの今日がいい日であったことを願って

  子どもがまだ小さく幼いころお休みのあいさつは「いい夢をみなさい」でした。
 旅先で、違う方向へ進む人には「ゴッド・ブレス・ユウ」と。
 そして「あなたの明日がいい日でありますように」と声をかけます。

 これはこれでみんないい挨拶ですし、これからも使わせてもらいます。


 最近もう一ついい挨拶の言葉を知りました。

 先日の沖縄平和ツアーで知り合いになったマユさんのブログに見つけた言葉で「あなたの今日がいい日であったことを願って」という言葉です。

 ブログでは「あなたの明日がいい日でありますように あなたの今日がいい日であったことを願って」と使われていました。

 あなたの明日がいい日でありますように は私も前から使っていました。他のどの言葉・挨拶も昔から使われていた挨拶だし、この度の言葉も私が知らなかっただけのことだとは思いますけど、良い言葉、挨拶ですよね。

2012年6月23日土曜日

報道写真にはニコンのカメラ  が泣きます

 日本軍によって強要された従軍慰安婦=セクシャルスレィブを写した写真展の開催を巡って東京地方裁判所は、一度は決定していたのに新宿ニコンサロンの使用を取り消したニコンに対して、会場使用を命じる仮処分命令を出しました。




 その“政治性”がゆえに開催・会場使用に横やりが入るということは残念ながらこのたびのニコンが初めてではありません。

 けれど報道写真ではニコン(のカメラ)という評価を得ているニコンが!という思いが非常にします。

 報道写真は紛争でも社会問題でも地域でも会社・企業、各種団体・サークルでもそこに社会性ひいては“政治性”を、言おうと思えば全部言えるのにと思います。

 ニコンだからこそ予定通り開催すべきでした。

 ニコンは、一度は開催することにした写真展を中止するという行為で“報道写真にはニコンのカメラ”と言うたびに何かざらつくものを感じさせるようにしてしまいました。

2012年6月18日月曜日

寒々とした 柏崎刈羽原子力発電所サービスホール

ブログに使用する絵がほしくて柏崎・柏崎刈羽原発に行ってきました。


柏崎自体は平和行進で街中を歩いたり、その先上越へ行くときに通ったりしていたけれど、東京電力柏崎刈羽原子力発電所サービスホールに立ち寄るのは久しぶり。

前回はいつごろだったろうと思い起こしてみると、巻に原発を作ろうとしていたころだから16・7年位前だったような気がします。

その後、巻に原発を作ろうという目論見は破たんし、そこへ昨年の地震・津波・福島第1原発事故(?)があったわけです。



久しぶりのサービスホールは様変わりしていました。

前は、町内や各種団体の人たちをバスでどんどん連れてきてたし、自家用車で駐車場もいっぱいでした。

それが、バスはおろか、自家用車もまばら。館内に入っても受付ホールには係りの人以外誰もいませんでした。

前はどこの誰とか名前や住所を全部書かされたものでしたけど、今回は口頭で聞かれただけ。(それだけでもあまり気持ちのいいものではありませんけど)

原子炉のカットモデルや建屋の構造などの展示は 以前と同様でしたが、3・11を受けて東日本大震災の地震や津波原発事故に関する掲示、柏崎刈羽の地震・津波に対する対策に関する展示がすごく多い印象を受けました。

その違い以上にびっくりしたのは、館内が寒々としていたこと。人気がないんです。

大勢の人がいるときのあのざわめきが全く感じられません。

案内の人に聞いてみたら、家族・子供向けの企画「工作教室」やキッズコーナーを目的に休みの日は家族連れが来るとのことでしたが、様変わりです。



ここの防潮堤は1年後に完成すると15mになるそうです。

安全性が十分確保された!と再稼働がNO田首相によって宣言された大飯原発は3年後ですよね。

おかしいよ!!

2012年6月17日日曜日

レイ・ブラッドべりが亡くなったことから改めて考えた “物事にはすべて時がある”

 レイ・ブラッドベリが亡くなりました。(2012年6月5日)


 知り合いでSFの好きな人に「レイ・ブラッドベリが亡くなったねぇ」とEメールしたら、久しぶりということもあって返信にいろんなことを書いてきてくれました。
 レイ・ブラッドベリが亡くなったということに対して「一つの時代が終わったんだなぁ」と話していました。

 特に好きなジャンルというわけではなくて、そんなに詳しくもないんだけどこの一言で大きな存在だったんだなぁということを再認識しました。



 私の場合レイ・ブラッドベリさんのことは、映画「華氏451」の原作者ということで初めて知りました。
この映画のことは、ショッキングな印象も含めてよく覚えています。
 出ている人は魅力・実力のある人たち、出来としても悪くありません。ただし時代(社会)がそうだったのか多分に実験的なタッチ

 私がこの映画・作品に強い印象を持っているのは、文化・社会性・未来に対する希望・不安・恐怖、素晴らしいこともしてきたけど愚かな“戦争”特にWWⅡで核をも手に入れ出したことに危機感を感じていた当時のみんなの思いを、この人は自分の手段“書く”ということで代弁していたと思うからです。
 SFというジャンルを越してすごく普遍的、哲学的なものをその作品、主張に感じたからだったんだと思います。
 華氏451とは本(紙)が燃えだす温度だというようなサイドストーリーがあったのも好みだったかもしれません。



ところで。
 考えてみるとこの5年10年というもの私の好きなアーティスト、 印象に強く残っている人たちがたくさん亡くなっています。
 もちろんその前もその後の時代にも素晴らしいアーティスト、曲・作品はたくさんあります。でも“時代”としては60年代がすごく印象に強いので、そのころに20代30代だった人たちだったとすればちょうどそういう年回りということでしょうか。

 この時代は良いも悪いもとにかく激変。
行動を起こせば変わるという感じがしたし、生きてるとストレートに感じられた時代だったように思います。(それだけに、その後大きな挫折感を味わい、停滞の時代があるわけですが。)



 “年回り”ということで言うと昨年母が亡くなりました。
 以前に比べると100歳を超える方もずいぶん多くなり、そこまではいかないものの母も長命の方だったんではないかと感謝しています。
   社会に出たころが祖母の代が体調を崩す頃でした。今が母のという年代になるのでしょう。

 もう何年か猶予をほしいといっても、そしたら大丈夫ということでもないし。
 いまだ大人になりえたかどうか自信のない私だけれど、神の判断で与えられた時間(時)を受け入れるのが一番正しいのでしょうね。

 これもやはりそういう年回り、時ということ、物事にはすべて時があるということなのでしょうね。

2012年6月13日水曜日

3・11 を境に価値観が変わったことに気付かない人たち


 
 
 福井県にある関西電力大飯原発の再稼働に向けていろんな動きが出てきました。

 新聞報道によれば「大飯原発が再稼働したら節電目標は15%ではなく、10%あるいは5%でいい」とかいうことも言い出されました。


 そういうことではないでしょ! と言ってるんですよ。

 事故の起きた時の取り返しのつかない被害。
 そのこともあるけど、そもそも私たちは“核”を使わない生活スタイルを選択しているんですよ。

 技術的なことはどんどん変わってきています。同じことをしていても使用電力はどんどん少なくて済むようになってきています。

 だとしても、3・11の前と後では違ってしまったのです。もう前には戻れない、戻ってはいけないと気づいたのです。生活スタイルを変えることを選択したんです。なんに価値を置くか、価値観が変わったんです。


 今回の、原発を再稼働させてくれたら節電目標を下げてもいいですよ発言は、変わってしまったことに未だ気づかない・勘違いしているということを改めて感じさせてくれました。

原田正純先生が亡くなりました

 原田正純先生が11日77歳で亡くなりました。


 「胎盤は毒物を通さない」という当時の定説を覆し、胎児性水俣病患者の存在を公にした人です。

 地域の医療機関で臨床に携わる形ではなく、席としては大学におきながら現場に出ること、実際に患者さんに会うことをとても大切にしていた人でした。

 患者さんの苦痛を和らげる研究はもちろんのこととして、被害の拡大をふせぐ、再び公害を起こさないという行動にも積極的にかかわった人でした。

 人間的にも研究成果の面でも立派なのに、大学では助手時代が普通では考えられないくらい長く続き。周りでは、患者に寄り添うことでもあるんだけど裁判では患者・原告側に立ち証言するなどのせいじゃないかと心を痛めたものです。(結局教授になったのは30年以上かかって、それも国立大学から私立大学に移ってからでした。)

 もう20年以上も前になるでしょうか一度だけ(講演会で話を聞くのではなく)直接会いお話を(話しぶりを)聞く機会に恵まれました。
 その時の印象は、物静か。話すテンポもどちらかというとゆっくりおっとりな感じ。声だって穏やか、遠くまで届く声質 声量ではありません。
 先頭に立ち、時には大きい声で相手をやり込めるタイプとは対極にある人でした。

 ただし、穏やかな印象なのに最後まで退かない、譲ってもいいこと、これは譲れないことということをちゃんとわかっている人でした。

 悪性腫瘍のために若くして、志半ばで亡くなった白川健一先生と共通するものがありました。




 それに引き替え、私のおばあさん世代にはとても評価の高かった、新潟大学の椿名誉教授は私の世代のころには変節していました。
 巻原発反対運動を共に行ったS氏も同様の道を歩んでいるように私には思えます。

 地位も名誉も得る、得ようとしつつ信念を曲げないというのはいかに困難なことか。

 歴史の評価、神の前でということではどちらがということは、私が改めて言うまでのことはないでしょう。

2012年6月12日火曜日

こんな 野田(ノダ)首相は NOダ!

どうにも腑に落ちないことがありすぎます。


 させてはいけない。しないでほしい。 
と祈る気持ちで願いながら、でもこの人(野田首相)は、そんな願いや声に耳を貸さないんだろうなぁ、やるんだろうなぁ、とあきらめの気持ちでいました。

 いろんな機関を設け、自治体や企業、マスコミもコントロールして、原発が再稼働しないと発電量が足りない停電するぞとの脅しまでして。
 この間に原発以外のどういう方策を練ったのか、手を打ったのかとほんとに思いますよ。
わざと手を打たないで、この間でもできることまでわざとしないで、それで足りない大変なことになるといっているように思えます。
 
 この、聴く耳持たない、最初から結論が決まっているというのがほんとに疲れますよねぇ。

 そもそも「安全対策は充分取られた」と言ったけど、3・11後に検討された対策(工事)の完成は3年後というのに、どうして今安全対策が完了しているといえるのでしょうか。

 全部完了したとしても私は不安ですけどね!


 こんな野田(ノダ)首相は NOダ! 





再稼働会見から時間が空いてしまいました。
 気にしながらも、実は金・土・日にいろんなことがあってどうにもかけなかったのです。

 まず金曜日。新しい・23年前の古い車の納車の日。
 週末というだけでも疲れがたまっているのにこのところの行事続きで、サックスのレッスンの後、映画に行くことさえできませんでした。

 土曜は午前の かのん の練習の後、小千谷までMさんの長襦袢を受け取りに行きました。
途中から雨模様になってしまいましたが、雨に濡れた水色に全塗装されたスタイルは一段と好ましく眺めたりしていました。

 その帰りに大変なアクシデントがあったのです。もう30分くらいで家に着くかなというところでいきなりエンスト。
 走行中突然赤い警告灯が3つも点灯。タコメーターの針が激しく振れ、油圧が下がり、カーステレオもストップ。ついには交差点手前の道路真ん中でエンジンが止まってしまいました。セルはもちろん回りません。
 こういう古い車は持ち主が変わるだけでもトラブルが出るもの。これまで何度も痛い目にあってきたから今回も覚悟はしていましたけど、こんなに効果的なタイミングで出てくれるとは。
 仕方がないから押しましたよ。押して道のわきに寄せました。
 それから自動車屋さんに来てもらうまでの2時間ちょっと。大変だったなぁ。
 結局家に帰りついたのは、10時まではいかないけれどそれ近く。疲れました。

 日曜日は朝から総支部総会。
 そのあと行った献血センターではまた引っかかってしまいました。
 13以上の基準値のところで12.9。「誤差の範囲と言ってもいいくらいだから気にしないで」とは言われたものの昨年に続いてですからねぇ。正直ショックです。

 そんなこんなだったのです。
 大変でした。

2012年6月11日月曜日

明日は来ない 今日という日




  明日死ぬと思って今日を生きよ



   永遠に生きると思って勉強せよ!








  乳がん発症、その後の全身転移により48歳で天に召された 杉本カオル さんが手帳に書き残していた決意の言葉

2012年6月10日日曜日

独立記念館で見つけた、ガイドさんが触れなかった 伊藤博文狙撃現場再現



 バスを止めたところから独立記念館本体に入るまでのアプローチ。
 モニュメントや植栽がされているし、とにかく広い。
 公園ようなものもあるし、目に入るものがたくさんありました。
 そのうえ、ずぅっと向こうにある独立記念館本体に気が行くものだから先ほどはまったく気づかずに通り過ぎていたものがありました。



 記念館のガイドさんからの説明はありませんでした。
 最初からそういうスケジュールだったのかもしれませんけれど、もしかしたら私たち日本人に配慮して話さなかったのかもしれないと感じました。




それは、1909年10月26日ハルピン駅ホームで、安重根が伊藤博文を狙撃するまさにその時を再現したところです。

独立記念館  ガイドさん 韓国の人の思い


 朝鮮、韓国の成り立ち。

 特に韓国が日本帝国による、侵略、属国化、そして独立運動を、記念・記憶する独立記念館へ日本人が行くんだから記念館のガイドの人もとても気を使っていました。



 「私たちは日本の人を責めようとは思いません。ただ、何をしたのかを記録し、知ってもらいたいのです。」
 ということを入館に先立って話してくれました。
(最終日にはツアーガイドさん自らも同様なことを話してくれました。)



 時代ごとにまとめられた記念館。
侵略と独立に関するところは、これほどまでのことを日本がしたのかと思うことがたくさん記録、再現されていました。

2010・9・15  天安・独立記念館

韓国到着。

 私たちを乗せた飛行機は昔懐かしい金浦空港ではなくインチョン空港に降り立ちました。

 ハブ空港としての位置を急速に高めているインチョン空港は、それを十分納得させる規模と賑わいです。

 入国審査を終え、今度は大型バスで移動です。

バスは韓国KIA社製。
 唐突に韓国製と言っているように感じるでしょうけど、1985年に東ドイツに行ったとき乗ったバスはブルガリア製でした。
 たまたまブルガリア製のバスだったんだと思いますが、資本主義諸国とは異なるとはいえ工業・技術的に他の社会主義諸国より進んでいるとされた東ドイツで、東ドイツ以外の国で作られたバスに乗るということでは印象に結構強く残っています。
 そんな経験があるものだから今の韓国の技術的なレベルの高さ、違い到達度を、このことに比較して感じたわけです。

インチョン空港を出発した大型バスは、よく整備された高速道路をひた走りソウルを越し、天安・独立記念館に到着です。

2012年6月9日土曜日

多国籍企業に対する日米の政府の違い

今朝(6月8日)の日経に 日本電機工業会の大坪会長の談話が乗っていました。


 「ドルが80円、ユーロが100円という円高の中、日本で一般的な製品を作って輸出するビジネスモデルは成り立たなくなった。国内生産を続けるには限界を超えた。」 「政府はあらゆる力を駆使して今の円高にストップをかけてもらいたい。」

 9面の左下の小さい囲み記事なんだけどこれを目にした時、びっくりするとともに意欲・意思も政策もない国(行政府)政治家に対するあきらめを強く感じました。

 今“日本”の大手営利企業のやっている様々なことをいいなんて絶対思わないけど、民間の、営利を上げることを命題としている大企業としては当然のことをしているともいえるので発想としてはこうなっていくんだろうなぁと、その展開はわかります。ただし私は許されるなんて絶対認めませんけどね。



 話を戻しますけど、この記事を目にして思い出したのが60年代70年代のころすごく耳にした“多国籍企業”という言葉。
 多国籍企業(そのやっていること)、そしてアメリカ合衆国政府とその政策のこと。
 営利企業が考えることは変わらないなぁと思うとともに、国(政府)の姿勢は日本とアメリカ合衆国ではずいぶん違うなぁとということ。

 当時アメリカ合衆国政府は、無秩序に際限なくアメリカ企業が国内の工場を閉鎖して国外に出ていくことを良しとはしませんでした。
 もちろん国民・労働者、地域・社会の犠牲は大きすぎるものでしたけど、アメリカ合衆国内に一定の産業基盤を残すことを義務づけました。
 アメリカ合衆国に輸出しようする大企業にはアメリカ合衆国で生産施設を設け雇用を生み出すようにさせました。
 それが最良だったか、最大の努力の結果だったかはわからないけれど、どうにかしよう コントロールしようとしましたよね。

 とにかく無為無策ではなくて、何かやろうと思いましたからね。

 ここに両政府の大きな違いを感じます。

2012年6月6日水曜日

リリアンさ~ん  オギラせんせ~い

 今ケニアでお世話になったリリアンさんとオギラ先生が初来日しています。


 アフリカに出かけていくことを思えば、たとへ他県だろうと日本国内、すごいチャンス。何とか会いに行きたいと来日のことを知ってから苦慮していました。

 曜日(休み)と距離、土地勘のことを考えて5月26日土曜の仙台か、6月3日(日)の東京だなぁと考えていました。

 ところが6月3日は平和ツァーで沖縄に居るし、5月26日は本番が一月後に迫った かのん の練習、コラ奏者山田さんの送別会。何より本部総会(27日)前日ということでどうにもやりくりができず行くことがかないませんでした。

 4月の異動以来の疲れもありましたしね。 疲れてますよ。

 ほんと残念でした。



 今回受け入れ先になった団体、同行の人のネット上のサイトでスナップを見せてもらいました。

私より若いんだから当然と言えば当然だけれど、オギラ先生は若々しく好青年。

リリアンさんはマゴソで会った時と服装も雰囲気もずいぶんと違う感じです。いい意味でかわいい感じさえします。

 会いたかったなぁー

2012年6月5日火曜日

辛い5月が終わり 6月になりました

  5月が終わり、6月になりました。


 思えば4月の異動後、特に5月は辛い毎日でした。

 異動時すでに始まっていた総会準備の各種業務。

 4月半ば、下旬くらいからおかしい!と感じてはいたんだけれど具体的な手立てがすぐには打てませんでした。

 そういう大事なことちゃんと申し送ってよ!と思うことがいくつもありました。

 つまるところは私自身が甘いに尽きるとは言え、とにもかくにもこういう風に考えることができるようになったのは進歩かなぁ。

 口に出して何でも言えたらもっといいんでしょうけど。



 もちろん私自身にも原因も責任もあるんだけど、私のせいだけじゃないと発想できるようになった。これ以上は気を付けないととか、一週間に一度はぐっと身体を休めようと意識できるようになった。
 すごいでしょ。



 この一月から準備していた、非日常である沖縄平和ツアーから日常に戻り、自分の出来ることやれることが必要とされないというか、できること わかっていることまで繰り返し確認される。
 そんなに私のことが信じられないのかなぁ。

 内向きになるしほんとに疲れます。


 上手に発散しなけりゃ

2012年6月4日月曜日

帰ってきました  (沖縄平和ツアー  2012・6・1~3)

 昨夜遅くに返ってきました。


 昨夜は、シャーワーでさっぱりすると共に切り替えをして(切り替えなきゃ と)今身に着けているものもすべて洗濯機にお願い。

 相当な渇きは感じるけど、空腹感というのは感じなかったので、ヨーグルトとロックで黒ビールを口にして横になりました。



 今朝は、疲れたー というわけではないんだけど、たぶんにボーっとした心持かなぁ。



 
 4月の異動後、いぜんにくらべればずいぶん歩くようになりました。でも、この3日間はほんとによく歩きました。
 (歩くのは)もともと好きだったんだと思います、気持ちいいと感じるし。

 ただし今回歩いたところは、
 ビーチと言っても辺野古の浜。
 上り下りしたといっても景色が良くて気持ちよく汗を乾かしてくれる風の吹く丘陵ではなくて、常備灯の全くないガマの中。湿度が高く凸凹はあるはすべるは の大変な洞窟。
 曲がりくねり、ところによって天井が下がり身体をかがめなければ通れない、貸出ヘルメットがあるのを納得する頭を打つ“穴”。軍手、スニーカーとか長靴でなければ大変なところ。

 だから、今普段とは違う筋の張りを感じています。
 オレンジジュースを飲み。昨夜仕掛けておいた洗濯物を干し、コーヒーを入れ、そして「ウチナージャズ」のハッピーな乗り。


 今一つ、活き活き生きている、ハッピー、ジャンピンさにかけているのに気付いている日常。

 日常があるからこその非日常。わかってきているんだけど、なかなかねぇ、の日常。
日常の中にある大切なことを忘れがちな生活ににもどっていく。

 楽しかった思い出 勉強になったし はっきりしていた旅の目的に参加してきた仲間だからいつも以上に声をかけ話ができた全国の仲間たち この身体の感覚。

 そして 予測の付く今日からの日々…   この落差

 今はまだ気も張っているから感じない疲れ、いつものパターンだと明日明後日くらいに出てくるのかもしれません。
 だけど、なんとなくこれまでと ちょっと違うかもしれない  という感じがしています。

 今年のビキニデーのこともまだ書ききってないのに、またこの平和ツアーをインプット。
いささか“はばけ”そうだけど、気を付けながらアウトプットしていきますね!

 
  ところで 那覇・国際通りでやっと入手した。

 今聴いてる「ウチナージャズ」いいわ―。
一曲目の「なんくるザないさ」から明るく楽しい気持ちにスィッチオン。
 テーマ曲とのこと。ちょうど「A列車で行こう」というような感じかな。このメロディが流れてくるともうみんなわくわく、そういう曲なんでしょうね。
 沖縄ジャズ協会結成50年に出されたこのアルバム。その“50”年というのが効いてるんでしょうねぇ。
 (今のスタイルとは違うけれど、懐かしくもとてもハッピーになります。そんな一言で片づけるなと怒られるのでしょうが、音楽で辛さを乗り越えてきたのかなぁ、ということを思い浮かべてしまいます。)

懐かしくもいい雰囲気  想像してね!