原田正純先生が11日77歳で亡くなりました。
「胎盤は毒物を通さない」という当時の定説を覆し、胎児性水俣病患者の存在を公にした人です。
地域の医療機関で臨床に携わる形ではなく、席としては大学におきながら現場に出ること、実際に患者さんに会うことをとても大切にしていた人でした。
患者さんの苦痛を和らげる研究はもちろんのこととして、被害の拡大をふせぐ、再び公害を起こさないという行動にも積極的にかかわった人でした。
人間的にも研究成果の面でも立派なのに、大学では助手時代が普通では考えられないくらい長く続き。周りでは、患者に寄り添うことでもあるんだけど裁判では患者・原告側に立ち証言するなどのせいじゃないかと心を痛めたものです。(結局教授になったのは30年以上かかって、それも国立大学から私立大学に移ってからでした。)
もう20年以上も前になるでしょうか一度だけ(講演会で話を聞くのではなく)直接会いお話を(話しぶりを)聞く機会に恵まれました。
その時の印象は、物静か。話すテンポもどちらかというとゆっくりおっとりな感じ。声だって穏やか、遠くまで届く声質 声量ではありません。
先頭に立ち、時には大きい声で相手をやり込めるタイプとは対極にある人でした。
ただし、穏やかな印象なのに最後まで退かない、譲ってもいいこと、これは譲れないことということをちゃんとわかっている人でした。
悪性腫瘍のために若くして、志半ばで亡くなった白川健一先生と共通するものがありました。
それに引き替え、私のおばあさん世代にはとても評価の高かった、新潟大学の椿名誉教授は私の世代のころには変節していました。
巻原発反対運動を共に行ったS氏も同様の道を歩んでいるように私には思えます。
地位も名誉も得る、得ようとしつつ信念を曲げないというのはいかに困難なことか。
歴史の評価、神の前でということではどちらがということは、私が改めて言うまでのことはないでしょう。
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