3・11 が近づくにつれ、関連しての話題・報道が増えてきました。
特にこの大震災は、原発事件によってその多くの人の時計が止まってしまった後以降も被害が拡大し続けている事柄でもあるのでなおさらです。
3・11を前にして明かされる新事実、最近一段と増えている発言の中で特に印象深かった発言(想い)を。
それはある詩人の想い、紡ぎ出された言葉(詩)なんですがその趣旨は“死んだ人はもう口で物申すことはできない、だからこそ生き残った私たちがその人たちの分も言い続けなければならない”と言うもの。
残った人がそうすることによって亡くなった方の想い・記憶も引き継がれていくんだと気づきました。もちろんすべてが引き継がれるわけではありませんが。
この気付き 発想は、人が死んだらその人の想い・記憶・知識・歴史などはどうなるんだろうと考えている私とも通ずるものを感じて印象深かったのかもしれません。
生き残った者、生かされた者はそうする責任、義務がある。使命、ミッションがあると再認識できました。
生き残った私たちには、亡くなった方の分も発言し続ける、忘れないということが必要な事であり大きな意味があることなんです。
忙中閑話
ところでテレビを見ていて違和感を感じながら思い出したことが。
それは、現場から報告をする人たちが一様に(ま新しい)ヘルメットを被っていること。
“被災地”からの報道なので当然なのかもしれません、それにその姿を見る人はそれで口でいろいろ説明しなくとも“理解”する
記号ですしね。
だけどそこで“普通に”暮らしている人もいる地域もあるわけで何か違和感を感じます。2年間使い込んだヘルメットじゃなくて真新しいヘルメットと言うあたりが尚更そんなことを感じさせるのかもしれません。
そんな不思議な情景、私自身も体験があります。
3・11の翌週私は宮城県の塩釜 多賀城に入りました。まだ頻繁に余震が起こる中でトリアージを手伝ったり避難所訪問などをしていました。
寒い時期でもあったし防寒に努めザックを担いで移動しました。
ところがその同じ道を仕事に行くのでしょうか、日常の服装で逆方向に行く人と何人もすれ違いました。
もちろんライフラインは寸断され復旧していない時期ですよ。
すごいというか、こんな状態なのにと思った覚えがあります。
被害の大きさをみれば私のいでたちはおかしくないと思うんだけど、このすれ違う人たちの姿を見ると、重装備の私の方がおかしいのかなと思ってしまいました。
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