2013年9月29日日曜日

コスモスの丘 4/4


ここの手入れしているという人と話すことができたんですけど、それによると 夏場に日照りが続いたり 夜も30度を下らないのが続くと成長が止まるのだそうで、今年の夏がちょうどそうだったそうです。 暑かったもの

で今年は例年より10日から2週間開花が遅れているそうです。 

例年通りだったら、グッド・タイミングだったんですけどね。

今は早咲きが咲きだしたところ、と言うことでした。

 

あれはあれでいい背景だとは思う昨年の上堰潟。 

今回は、抜けるような青空に映えるコスモスを鮮やかに撮りたくて行ったんだけど当日の天候は薄曇り。ちょっと当てが外れてしまいました。

それでも、空を背景にコスモスまぁまぁ良いでしょ。

あまりにもイメージ通りすぎるかもしれないけど。

 

繰り返される忙しい毎日の中に自分の意思で組み込むことのできた“冒険” 非日常の一日。

いい気分転換の一日となりました。

こういう一日が大事なんですよ。

コスモスの丘 3/4


そんなことを繰り返しながらやっと着いたのにコスモスが見当たらない。

うっかりして通り過ぎてしまったのかなぁと、今年は行ったり来たり、周りを探してみました。

そしたら、ファインダー越しに良さそうな処が向こうの方に。そこまで行ってみたら、そこがコスモス園・丘だったというわけです。

去年はタイミングを逃して咲き終わった後でしたけど、今年はバッチリ。

ただし 例年なら でした。

コスモスの丘 2/4


最終的にはもちろん着くわけだけどこの度はいささか疲れました。

行くも止めるも自由な一人旅ですから、この道でも行けるかな?!と初めて通る道に幾度もハンドルを切りました。

山裾川筋に沿った細い旧道をクルクル回っているうちにいささか方向感覚がおかしくなったのかな。

この山の向こうに抜ければいいはずだとか考えて進んでみた道はどんどん細くなるばかり。ボディにこするほどに枝が道に張出、アスファルトの舗装も途切れセメントに。

何をしてたのか猿も道端に出ていました。

落石なのか大水で押し流されたのか大小さまざまな石。さすがの私もこれ以上進むのを断念せざるを得ませんでした。もちろんバックで戻らないとダメ。

コスモスの丘 1/4


やっと一つ終わりました。

今日 健康福祉まつりが終わって一区切り。ホッとしました。今夜は休ませてもらいます。それからまた一生懸命頑張ります。

 

この間ずっと忙しかったから尚更息抜きが大事と思って、先日 行ってきましたよ!“コスモスの丘”

昨年はいろいろあってタイミングを逃してしまって、まぁ今年だっていろいろあるんだけどエイヤッ。思い切って出かけてきたのです。

今回行ってみて初めて気づいた看板。それを見たら、コスモスの丘じゃなくてコスモス園と言うのが正しい名前でした。

コスモスの丘 の方がいい感じがしますけどね、私は。

2013年9月21日土曜日

自分のことは棚に上げて タラレバ で T F K a のこと T4/4

 
ちゃんと話してほしかった。相談してもらえたらもっと違っていたと思います。

でも、そもそもあてにされていなかったのでしょう。

 

 煙草のことは、それ自体が毒なのはもちろんなんですが、私にとってはそれ以上に嘘をついていたと言うことで、すべてにおいて信頼関係が崩れたしまった行為でした。

煙草を吸吸わないだけでなく信じられなくなった出来事でした。

 

いきなり泣きながら帰ってきて、びっくりする子どもと私を振り切ってどこへ行くのかも言わず飛び出して行ったことが3度ありました。 

心配する私たちに帰ってきてからも何も言いませんでした。

 

私、なかなかその時にタイミングよく聴き返すことができずに、あとになってから思いついたり、あれはどういうことだったのかなぁと思ったりするんですが。

今となればもう永遠に明かされることはないでしょうけど、この出来事も含めて、いまだにわからないことがあります。

 

今でも、多分に趣味性の強い催しに顔を出すと、Tならこのような催しにも喜んで一緒に参加できる人だったなぁと言うことは思います。

もしあの時を乗り越えていたら今も一緒にいたかもしれません。だけど、そんな人間関係でしたから(お互い)今幸せかどうかはわかりません。

自分のことは棚に上げて タラレバ で T F K a のこと T3/4

 
最後の年、Tのおばあさんそしてお父さんが立て続けに具合が悪くなり入院。

一人実家に残った母をそのままにしておけないと仕事の後毎日泊まりに行っていました。

おばあさんは突然の事だったけれど、お父さんについては体調を崩して病院に行ったところそのまま入院となっていました。

検査結果、病状説明の時「ここで子どもと待っていて」とTに遮られてナースステーションの外で待たされました。

何度かそんな事があったけれど結局一度も説明してもらうことはありませんでした。

実家に泊まりに行くことについても何の相談も受けませんでした。

 

その後今につながる状況が起こった時「何も助けてくれなかった」と言い切られてしまったけれど、私も職場の異動と新しい業務、進級と受験の子どもを毎朝起こし食べさせ送り自分も出勤。忙しく帰って夕食を作って… 

精いっぱいでした。

そんな私の事も少しは察してほしい。

自分のことは棚に上げて タラレバ で T F K a のこと T2/4

 Tとは地域の社会福祉サークルで出会いました。

まあ私も人のことをあまり言えない感じだったと思うけど、イメージとしての社会福祉の場にはちょっと違う雰囲気・(流行の)服装。

でもそれだけ。

年も離れていたし、月1回の集まりもいつも参加と言うわけでもなかったから。

 

それが、今ほどに一般的じゃなかったインド、インド舞踊受け入れのための有志実行委員会で偶然一緒になったんです。

それからでしたね。

 

福祉サークルのみんなでお店に行った時いきなりタバコをふかし始めたのを目の当たりにしてびっくりしました。

おつきあい、そしてその後一緒に暮らすようになり、喘息持ちだったT に「喘息があるのにタバコなんてダメだよ」と言った私にこたえてくれてやめてくれました。 

 

はずだった。

 

だけど、臭いに気付くことはなかったけれどでもやめてはいなかったんです。

その後何年かの間に3度にわたって煙草とライターを見つけてしまいました。

問い詰めると(故にか)「煙草を吸うのはあんたのせいよ!」と言い切られたことがありました。

その後ゆえ遭って彼女が通勤に使っていた車を引き取った時サンバイザーのところに煙草のヤニが色濃くついているのを見つけて大きくショックを受けました。

自分のことは棚に上げて タラレバ で T F K a のこと  T1/4

 この4人の中では唯一一緒に暮らした(事の有る)人。
“日常”だったからかもしれないけれど、私のためにお化粧したり着飾ったりは全然してくれませんでした。

 

Tは良くも悪くも“判定の出来る人” 。 

一緒にではなく 一歩離れて評価する人。  

 

決定は自分一人でする人。

“相談”

話は耳に到達していただろうけど、どの道を選択するかはまったくもって自分の規範でできる(する)人。

 

 “会話”を楽しむと言うことはありませんでした。

Tの方から私に話かけてくることはありませんでした。

無駄な話はしない。

それこそ そんなことは無駄! という考えの持ち主でした。

気軽に話すという雰囲気はなくて会議をしているみたいでした。

 

 いつも そんなんじゃダメッ と否定されてばかりでした。

私は認めてもらおうといつも考えていて疲弊してしまいました。

何度もプライドを傷つけられました。

自分のことは棚に上げて タラレバ で T F K a のこと


 

先日は結局「ディーバ」「ひまわり」「イル・ポスティーノ」の3本を観てしまいました。

上には上がいるものだからもっとたくさん持っている人はいるだろうけど、私も長い期間にそれなりの作品()がそろいました。

漠然と思いをはせていますが、その中でこの3本に手が伸びたのはきっと何かあったんでしょうね。なんとなく色調は似ているような気がします。

 

そんな感じで。

 

何時も深刻に思いつめてなんかはいないけど、どういう気持の動きか思い起こすことがあります。

 

歴史において、あの時○○してい たら とかして、い れば はないとなっているけれど。

 でも何かの拍子に、もしあの時○○してたら今頃はどうなっていただろうかなぁと考えてみることはあります。

 そんなわけで今回は自分のことは棚に上げて T F K aのこと。

そして、もしその後もお付き合いしていたら (生活)を妄想してみました。

2013年9月15日日曜日

9・11 1973 三人のパブロ


ところで、 9.11 っていろいろあったんですね。

911日のニュースではアメリカツインタワーに対するテロ攻撃、そこでの式典の模様やその後の世界情勢のことが扱われていました。

日本に関してでは「11」つながりなのか、311東日本大震災から2年半と盛んに取り上げられていました。

 

そしてもう一つ911

初めて、公正な選挙で誕生したと言われるチリのアジェンデ政権に対する軍事クーデターも 911(1973) だったんですね。

 

昨年「サンチャゴに雨が降る」がDVDで出たのを知った時はやっと出たかと思いましたけど、そこから40年目だったんですね。そういう意味合いもあったんだと納得しました。

 

1973年” いろいろあった年と記憶しています。

3人のパブロ”もそうですし。 そのほかにも…

 

 

「ベンセレモス」歌いました。

私自身は、公民権運動やピートシィーガー、PPM …なんかの関係で「ウィシャルオーバーカム」の方がなじみとしては強いけど。

昨年のビキニ・デー、海外からの参加者との交流会で「ウィシャルオーバーカム」を肩を組んで歌ったのも記憶に新しい一コマです。

 

追伸 これから「イル・ポスティーノ」を観ます。

本も演出もいいけれどそれ以上に自分を投影して見てしまう番組





「あまちゃん」人気はすごいですね。

出演者が口にする“ジェジェジェ”も今年の流行語大賞ほぼ確定かと言うほどひろまって。

主人公の顔立ち 言動、周りの人たちのサイドストーリーもすごく人間味を帯び魅力的。
 小ネタもみんな生きて、近頃まれに見る番組。

笑わせて泣かせて。
 

 
 でもこの番組をみんなが見ている、注視しているのはそれだけじゃないと思っています。

20何年前にフラッシュバックもするけれど、基本的には時系列で話は進んできました。だから第130話あたりからは切なくなりました。

主人公たちのコンサートのポスターが完成。その日程が312日になっていたのにはドッキリ。
 (2011)311日。 311東日本大震災が近づいてきてるのに番組の中のみんなは何も知らない。

 刻一刻とその時に向かっている
 見ているこちらはその先がわかるものだからドキドキしました。

 

あの地震の後の津波。繰り返し流される津波の映像。
 具合も悪くなります。忘れられません。

 でも主人公はへこたれてません。
主人公を気遣う人 家族(家・家庭) 友人 もいます。
 番組、話としてはどのようになっていくのでしょうか。

私自身頻発する余震の中現地に居たので目が離せません。そんな私も含めて被害にあった人たち、同じ時間と空間を共有した人たちは、次がどうなっていくのか(立ち直ってほしい)祈りと願を含めて目が離せないのではないでしょうか。

今 “はまっている” あまちゃん と トンイ とハリウッド映画に共通点が


今 “はまっている” テレビ・ドラマ 「あまちゃん」と「トンイ」

 正確に言うと話の進展としてはトンイの方は“韓国の番組”ということで言ったほうがいいですが。

 

 “韓国ドラマ”はもう何年も前のことになるけれど、同じ部所の人が“チャングムチャングム”とあんまり話題にするものだからためしに観てみたら、これが面白い。

今放映中のトンイも同様にハラハラドキドキしながら楽しく見ています。

大きな流れ、テーマはもちろんあるんだけれど、毎回次を見たくなるようなストーリー展開でラストにあ~どうなるんだろう、と次回への関心を否が応でも高める終り方をするんだからやめられない。作り方、見せ方ををすごくよく考えています。

次の回では、変にひねりすぎないで、ちゃんと落とすところは落としてくれる。

すっきりします。ストレス解消。 そしてまたラストの方ではハラハラさせるシーンが出て来て次を見なくちゃ!とさせて終る。

素直に楽しめる、見ていて面白い 楽しませてくれます。

 

日本の番組「あまちゃん」も次はどうなるんだろうと関心が途切れません。

 

なんに “はまる” ひかれるのか。この二つの番組には共通する物があるように思って考えてみました。

 

 登場人物のキャラクター設定がうまい。 

韓国の方は、どのシリーズにも共通して美人と言うよりはかわいいに寄った主人公。 綺麗はきれいなんですよすごく魅力的

 

よくもまあ次から次へと、と思うくらい主人公を難題が襲うところも同様。

でもへこたれないんだなぁ。明るく楽観的。

深刻な話題の後には 笑いを取るキャラクターの登場や小ネタでほっとさせる も共通してます。

 

意識して 歯を食いしばってではないけれど、主人公はどんな時でもあきらめない。

主人公を気遣う人 家族(家・家庭) 友人 がいる も共通しています。

 

ここまで考えて来て、これハリウッド映画じゃない!と気付きました。

物事には何でも表裏、功罪両面ある事は知ってます。

 これは作品としてのエンタティナーのハリウッド映画の功の面でしょうね。

 確かに楽しい。