2014年6月29日日曜日

議場でのレベルの低すぎる野次。かばった人も同類に成り下がったことを自覚するべき。


このたびの東京都議会での塩村議員に対するセクハラ野次はひどすぎる。ただし、私自身もそう思ったけれど多くの人が さもありなん とか 本音が出た とか思ったところが日本の現状を意識せずとも認識してしまっているということで悲しい。

ある人は、言われたその時に(苦笑してしまった)言い返さなければだめだという人もいる。確かにそれくらいにはっきりした問題発言だったと思います。でも、そうは思うけどなかなかできないもんですよ。私自身もその時そのタイミングでは言い返せなかったと思います。だけど何も感じないわけでも思わないわけ度もありません。心にはしっかり残るし後々いろいろ考えてしまうものです。これから先場数を踏むことでいくらかでも変わるのかもしれませんが、そんな経験を糧にして、私の隣の人がそのようなことを言われた時には共感し力になれるような人間に成りたいと思っています。

 

話し戻して。まだ正直に悪かったと謝りも反省もしない議員はもちろんよくない。けれどその時隣にいた人、聞こえた人も黙って居る、正さないことで同類になっていることに早く気付くべきだった。本会議中の議長もその役割・ミッションを果たしていない。その時に適切な対応ができなかったとしても、その後で被害者の立場、問題の本質を理解することなく加害者をかばい問題をうやむやにしてしまう態度をとったことによって同罪の罪を犯してしまいました。かばっている議員も同罪。これが本音、自民党のひどいのはもうあたりまえだけど、ほかの議員・党も同調したことによって人間として反省することをしない同類になってしまいました。

 

追伸のように書き加えますけど。

“野次にもいいヤジと悪いヤジがある”なんてのもどうかと思います。“体罰”にもいい体罰と悪い体罰があるなんて言うのとおんなじだと思います。

“ヤジ”は野次。良いも悪いもない。議場での討論とか議論とは全く別の物。線を引く分けるなんてのは様々な諸問題が絡んできて収拾がつかなくなるので最初からしないほうが問題の本質がはっきり見えていいと考えます。

2014年6月26日木曜日

ピースマーク 誕生


ピースマーク 誕生のいきさつについて前にも聞いたような気もするんですが、先日新聞記事にピースマーク誕生のいきさつを見つけたので、忘れないようにここに残しておきます。

 

ピースマークとは、英核軍縮運動(N)などが1958年に行った 核兵器廃絶オルダーマストン行進を機に制作されたもの。

考案した人は デザイナーのジェラルド・ホルトムさん

ジェラルド・ホルトムさんは第2次世界大戦の時に良心的兵役拒否をした人。

CNDはその後も使用権を独占せず、世界中の平和を求める運動には公開されている。

2014年6月25日水曜日

私のこだわり


3(私を含めて)のために、忙しい皆が集まってくれました。前々からこの日を楽しみにして、なんて集まりではありません。儀式としてというところかな。でもありがたいことです。感謝

参加した人たちから一言ずついただきました。えーッそんなところまで知っていたの! と驚いてしまうようなことを口にする人もいたけど、お定まりの言葉の後が続かない人も。   

座がにぎやかになってから、一人改めて「○○さんとは喧嘩もしたけど… 」と声をかけてくる人がいました。今日は儀式の場だからとあえてその話題には乗らないようにしましたけど、断じて あれは喧嘩じゃないよ!  先日の革新懇総会の時の講演会の話ではないけど、力の拮抗状態にあるもの同士の“激突”なんかじゃありませんでした。喧嘩じゃなくて、大きな声で怒鳴った者勝ちの一方的なパワハラでしょ。 

私“俺が俺がはいや“ やせ我慢だとわかっています。でも私のこだわり“私の美学”のつもりです。私職場では、自分が思っていることを他の人が同様に口にし行うならばそれでいい、同じ組織同じ理念の下で進んでいるならば、と思っていました。でもそんな思いなんて通じなかったのでしょうねぇ。何も言わない人、もしかしたら言えない人とさえ思っていたんじゃないでしょうか。だから生まれた“事”だったかもしれません。そういうことで言うと私にも原因はあったと思います。

 

 ところで、どういういきさつでそんな価値観を持つようになったのでしょう。少し考えてみました。

 

昔々勝賀瀬という人がいました。このことはもう何度か話しているので知っている人もいると思いますけど改めて。勝賀瀬さんは社会的に虐げられ生きていくこと日々生活していくことが大変な人たちの集落・地域に建つ映画のセットに出てくるような古い長屋に住む小さい地方都市のとはいえ市会議員さんでした。集落内を走る道は当時でももう見ない土の道でした。これ私のいつものパターンだけど、そのギャップがすごく気になって足を踏み入れるようになったのです。

通ううちに縁ができた人、お邪魔したお宅。出されるお茶、器。こんなの見たことない、初めて見る。そんなことがたくさんありました。そんな中、何か文章を書くようなことになると顔を出すおじいさんがいました。物静かで一人だけ字がダントツにきれい。実はこのおじいさん、戦前 自身は戦争に反対だったのに“家”家族のために軍属になってしまったことを深く悔いて戦後ここに住んだといういわくのある人でした。そんないきさつを認め、そんな生き方を認め、その能力を認められている人でした。(きっと、認めてもらっているという確信が意識しているかどうかは別として持てたんだと思います。)

 勝賀瀬さんは戦後レッドパージされここに移り住んだ人。中央官庁から地方視察に来た高級官僚が会いに来たりするほどの人でした。それほどの勝賀瀬さんもこの人を認め一目置いていました。この人は決してでしゃばるようなことはしない人だったけれど、そんなこの人を私はかっこいいと思ったんです。

 なんでかっこいいと思ったのか、そのように立ち居振る舞いたいと思ったのか、してきたのか。口で話はできます。でもそれで納得してもらえるかどうか確信は持てません。参考までに次の話を載せて一区切りにしておこうと思います。

 先日行ってきた柏崎のドナルド・キーン・センター。そこで知ることのできたキーンさんの思い。昭和20年に高見順が上野駅で見かけた被災民への思い「私の目に、いつか涙がわいていた。愛しさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、死にたいと思った。否、私も、今は罹災民ではないが、こうした人々のうちの一人なのだ。何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして、心から日本を愛し信じている庶民の、私も一人だった。」高見順「敗戦日記」に触れたときの感じ。その時思った 感じた そしてその後を方向づけてしまった、と同様のことが私にも起こったということなんだと思うのです。だから、口で説明してわかってもらえるようなことではない出会いがあったということだとおもっています。

2014年6月23日月曜日

原水爆禁止国民平和大行進 2014



2014年の原水爆禁止国民平和大行進に参加してきました。

参加したコース(618)は前回と同じ新発田市から新潟市北区・旧豊栄を経由して阿賀野市までのコース。思えば私はこれまでいくつのコースを歩いたでしょうか。何回、そして誰と戦争のない核兵器のない平和な世界を願い歩いてきたでしょうか。

 今年は一段と参加者の年齢が上がったような印象がありました。新発田ではまだ働いている現役世代も幾人か参加していましたが、三つの街いずれも高齢化が進んでいると思いました。(補足すると、コース・町によっては参加人数も若い人の参加状況も違い、結果として印象も違います。)

特定秘密保護法 勝手に憲法解釈を変えて集団的自衛権をごり押ししようなどと社会情勢は一段と危なく混迷を深めてきています。そんな中、若い世代は労働環境の悪化で、思いがないわけではないけれど自分の抱える仕事もいっぱいいっぱい。それに、ほんとは次に継承していく責務のある世代も余裕をなくして、職場のみんなでやりくりしてでも誰か送り出そうというというのも困難になってきています。以前は、年齢が行けば程度の差はあれど誰でも身体の調子がおかしくなるのは仕方のないこと。医療制度も年金制度も後になってどんどん悪く変えられて生活がどんどん大変になり、毎日生きていくのが大変「年寄りも大変なのよ」と思っていたけど昨今は若い人も大変なのよ。

3年ほど途切れていた北海道から東京までの通し行進者が、私と同じように参加者の年齢が上がってきていると感じたのでしょうか集会挨拶で言っていました「平和行進が始まって57年がたった。57年継続してきた。これが力になるんです。」と。人ひとりの時間では変わらなくとも、正しいことはいずれ必ず変わります。たとえ一時大変でも継続していけば必ず変わると確信しています。

2014年6月22日日曜日

JUNEコンサート 音文の機器  勉強になりました


 
 
 
女性コーラスグループJUNEのコンサートのお手伝いをしてきました。

 
会場は昭和橋のたもとの音楽文化会館。そう、もうずいぶん前になってしまったけど昔公会堂があった場所に建て替えられたものです。以前あった公会堂は確かに建てられてから相当たった古い建物でしたけど、趣もあったし天も高くて(いい意味で)もうあんなに“無駄”のある建物は造れないでしょうね。昔オスカー・ピーターソンが来た時もここで公演だったのかな?私はここで浅川マキさんを聴きました。

 
音文。収容人数で言えばもっと大きいところもたくさんあるけど、ここでいろいろなコンサートや講演会、練習スタジオの利用などで結構来てました。けどホール・舞台のバックヤードは今まで機会がなくて今回が初めて。

 
 
隣接のリュートピア=芸術文化会館と比べると規模的にはずいぶん小さい音文だから芸文よりはコンパクトだと思うけれど、それでも備えられている機器は私の目には結構なものでした。残念ながら音響の方は見ることができませんでしたけど、照明の責任者の動き、委託されている新潟照明の専門家のアドバイスを目の前で見聞きできてすごく勉強になりました。そして、本番の時のあの緊張した雰囲気もね。あの感じ、いいですよね。 

2014年6月20日金曜日

ホーリーバジル / 物持ちの私にできる生活の形


写真は先日ヨガのバラティ先生からおすそ分けで種をもらって蒔いてみた“ホーリーバジル”の双葉です。(バラティさんはHKさんからもらったとの由)

 ホーリーバジル 日本で言うと“カミメボウキ”という名前になる、シソのグループになるものだそうです。 “ホーリー”日本の“神”とはいずれもすごい名前ですねぇ。

昨年は収穫できるまでに育ったものをもらったんですが、普段口にするバジルと比べるとより香りが立つ、野生・青い感じが頭一つぬきんでている印象がありました。なんでも、原産地のインドでは、その周りを浄化し聖地に変えてしまうハーブなんだそうです。 別名トゥルシー。立派に育てますね。

 

HKさんは私もヨガや催しで何度か同席させてもらったことのある人。話し方・声質・口調も穏やか、すべてにおいて“ゆったり”した感じの人。余計なお世話でしょうけど、今のご時世こんなんで生きていけるの、何をしている人何をしてきた人 と疑問符・?が浮かぶほど。

 ありすぎてもよくないのがお金だけれど、ないよりは足りる方がいいのは間違いのないところ。決して多数になってきたわけではありませんが、今生活・生き方は多様になってきました。いろんな価値観・尺度が出てきた、有りだね!になってきたんだと思います。HKさん、写真を見せてもらったインドに行った時の(0では行けないわけで)こととか、日々生きていくための生業はなんなのか、いつか聞いてみたい人です。とは言え、きっと“物持ち”の私にはできないような生活をしているんでしょうね。

2014年6月19日木曜日

韓国で入手した これまで見たことない形の新聞


 

タブロイド判と比べてみるとこんなに
  私、国の内外を問わず出先では新聞を買うようにしています。可能ならばその地域でのみ発行されている地方紙。ないときは全国紙、時には両方。地方紙には地域に密着した話題、そして全国での話題がここ(地方紙)ではどれくらいのスペースでどの様に扱われているか。全国紙の場合は、発行される地域()でどのように扱われているかが比較できるので楽しみなんです。このたびの韓国平和の旅でも何紙か手に入れました。その中の韓国・ハングル語の一紙にずいぶん変わったものがありました。

私が普通(日本で)いう新聞というと、見開きがA1片面がA2の大きさのものです。スポーツ新聞や週刊などに多いタブロイド判というサイズ・形もありますが、(私が)これまで見たことのないこの韓国の新聞はずいぶん縦長。一面・片面の大きさ、縦はA1サイズより長く横はA2サイズより少し狭い。

この“形”、横・脇との間隔がない混雑する電車などでのときなどは便利かもしれません。私も場所に余裕のないときなど、片面をそのまた半分に折って細長い形にして読むことがあります。小さく気軽にということならばタブロイド判というサイズの紙面・新聞もあるけれど、横を狭くしてもこうすればめくりなおさずとも読める量・文字数は、特にこの新聞は縦に伸ばした分が一段とタブロイド判よりも普通の新聞よりも多いわけで、この形 意外と合理的かもしれません。



2014年6月17日火曜日

プリンター シアンの色は 空の色

“ケニア紀行”を一冊の本にまとめたいと思っています。なかなか思うように進みませんが…  まとまったら、今もやり取りさせてもらっている一緒にマゴソに行った人に真っ先に読んでもらおうと思っています。
本にまとめてというのはいまだかないませんが、お二人には先に写真だけ焼いて(印刷して)プレゼントしました。お二人は、せっかくここまで来たのに、と心配になるほど写真を撮らないものだから私の約3,000枚近くの中から3人分、同じカットを3枚あるいは4枚というのもありましたけど顔を思い浮かべながら最終的に2,000枚近く印刷しました。用紙、特にインクが大変でしたねぇ。インクは特に“シアン”がたくさん必要でした。あんまり違うんで、どうしてだろうと考えたほど。
以前別のメーカーのプリンターを使っていた時はイエローがすぐ減りました。あるとき家電店の人に聞いてみましたら「日本人の肌が黄色いからどうしてもイエローの減りが早いんですよね」と言われて「そんなものかなぁ」と思った覚えがあります。
その後のデジカメの普及と性能も上がってきたのに伴って思い切って写真印刷に特化したものを買い足したわけです。
確かに違います。全体の明るさも色味もコントラストも、さすがに専用機と納得の仕上がりです。 それまでの物に比べるとインクが高いのが難点といえば難点でしょうけど、出来上がりには満足しています。
 さて。このたびのプリンター(印刷)ではとにかくシアンが減りました。どんどん減るんです。それで以前のプリンターの時のことを思い出し考えてみて自分なりに落ち着いたのが。
ケニアの空はとにかく青いんです、エナイボルク村・マサイマラなんかは見事なものでした。
“空の色”納得です。

2014年6月16日月曜日

新潟革新懇総会(講演会)


新潟革新懇の総会に行ってきました。正確には、会員ではないので第1部の総会には参加しないで2部の記念講演を聞きに行ったということになりますが。(2014.6.8新潟中央区のクロスパルにて)

いろんな立場・考え方の人が幅広く具体的な要求・事柄で力を合わせてというのはいいことだと思います。そんなことで、昔からこの団体の理念は正しい(方向だ)と思い関心は持っていました。ただし、理念と実際のところはどうかというとまたいろいろというのが常、自分たちでなければ・中心でなければという印象がありました。その後変わってきたんでしょうか。確かに経験も実績も、個人レベルでも組織の点でも違うのは確かなことは私でもわかります。そんな団体・個人から見れば、運動の進め方、かかわる人の時間のかけ方・集中・活動形態なども物足りなく感じるんだろうなぁと想像に難くありません。逆の方からは、具体的な課題について考えることを第一に考えて、反共主義・反共宣伝の克服が必要なんでしょうね。

今回の集会も、資料を急きょ増し刷りするほど会場がいっぱいでした。私はこのたび初めて顔を出してみたんですが、これまではどうだったんでしょう、こんなに大勢参加していたんでしょうか。社会情勢、雰囲気も変わってきている中で、革新懇は今後どういう運動の進め方を想定・理想としているのでしょうか。

 

 講演は全国革新懇事務室長の乾友行さんを講師に「一点共闘」から統一戦線へ -革新懇運動の展望と課題を考える- と題して行われました。内容以前に、まあ全国あちこちの人・動きをよく知っているもんだと感心しました。 

 話はまず「~今の運動・社会情勢は激突の情勢だ~」と始まりました。「圧倒的な力の差のある関係を激突とは言わない、つまり今は拮抗状態になったとい言われているということはそういう存在になってきたということだ。」と話していました。確かに、このところの諸集会の人の集まり具合・熱気がいずれも以前とは違ってきているのを実感しているので力関係が変わってきているのは確かだと思います。

 具体的な一点でならできる・しようとこれまでの保守だ革新だという立場を超えて地域で要求ごとに共同するように変わってきた。しかし、一点での共闘だけだとどうしても反対という色彩が強くなるし限界がある。いまはそれにも気づき質的にも変わってきている… とたくさん話してくれました。

3・11後 ドナルド・キーンさんはなぜ帰化したのか その一因


「ドナルド・キーン・センター柏崎」につい先日念願かなってやっと行ってきました。
昨年、私のところから車で約一時間ほどの柏崎に記念館ができるということを知りずっと気になっていたのです。なぜ柏崎なの? 

そしてそれ以上に当たってみたかったのは、東日本大震災 311(福島第一原発事故)後 日本から逃げ出す人さえいた中で外国人・アメリカ(合衆国)人で年齢も行っている、誰に言われたわけでもないのになぜ日本に帰化したのか、なのです。 
 

 ニューヨークからそっくり移築したキーンさんの書斎にいた女性から「どうぞ腰を下ろしてください」と勧められ、キーンさんも腰を下ろしたであろう椅子に腰を下ろさせてもらい、これまでのいきさつをよどみなくとても詳しく話してもらいました。そのおかげと展示を視て、これまでの縁と人となりをいくらかでも理解し共感・納得することができました。

詳しくこれまでの業績をここで紹介するというような書き方はしませんが、ここで聞くことのできた話、そして映像や展示を見て知ったこと共感できたこと。それは、昭和20年に高見順が上野駅で見かけた被災民への思い「私の目に、いつか涙がわいていた。愛しさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、死にたいと思った。否、私も、今は罹災民ではないが、こうした人々のうちの一人なのだ。何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして、心から日本を愛し信じている庶民の、私も一人だった。」高見順「敗戦日記」より、であり。
コロンビア大学大学院時代の恩師・角田柳作先生の存在は「日本学者として以後私がやったすべてのことは、コロンビア大学大学院で角田先生のもとにいたあの一年半の間に、すでに予見されていたのです。」とまで言わしめた出会いだったのです。

 私から見ると、最後に味噌をつけた生き方の人もいますが、とにかく功成り名を成した多くの著名人と親交がありました。その出会いの中から、日本との最初の出会いであった「源氏物語」、古典以外の日本の文学→文化も研究・紹介するようになったんだそうです。 
 交友のあった人たちの中にはショッキングな自死を選んでしまった人もいました。キーンさんにとってもショッキングな出来事であっただろうと思います。

 ところで、キーンさんは第2次世界大戦中海軍語学将校として、争いをやめ降伏するよう働きかけたり救出したり、日本兵からの情報収集そしてその過程で日本兵の書き残した日記を目にしたりしていたそうです。私はここが一つの大きなポイントだと思います。有名な人と交流があり有名な作品に触れていただけでなく、名もなき市井の一人一人の日記にふれ注目したからこそそんな時でも心が折れなかったのではないかと思うのです。 

 
 そのほかこのたび知った、私・私の今そしてこれまで住んでいたところとの縁がたくさんあったことにも驚かされましたがそれはまたの機会に…

2014年6月14日土曜日

日本人だからではなくて ほんとは自分の言うことを聞く人だけ助けます なんでしょ


この間の推移を知らない人には唐突な話し()だとは思いますが…

 “進んだ”理念が形になった憲法9条=平和憲法を、アメリカ(合衆国)の押しつけだとして変えようとする企て(それで喜んでくれるのはアメリカ合衆国という摩訶不思議さになぜ思いが至らないのか)が憲法改定の規定によってうまくいかないものだから、まずそこをと96条に手を付けようとしたら憲法改定を主張する人たちからも総スカンを食ってしまい、どうにもならなくなったものだから今度は勝手に“解釈”を変えることでこれまで歴代の内閣が否定してきた“集団的”自衛権を導入して破壊と人殺しに他ならない戦争をできるようにしてしまおうとしています。

そんな企てに対して、未来永劫続くわけでもない一内閣の勝手な憲法解釈で日本を戦争する国にしてしまってはいけないと異を唱える人の数と勢いは一段と拡大し、さすがに連立している政党も難色を示したものだから「集団的自衛権は日本国民が危険な時にその身を守るためだけに行使する」それは以下の事例の時だけだと言って15とか5とか3つだとか例を出してきましたが、だいたい戦争はそんな想定に当てはまることばかりではないと思います。まさに想定外、予想だにできない最たるものの一つではないのでしょうか。それに一度集団的自衛権を選択しておいていざとなったら「今回は出ません」なんてことは通らないでしょ。

「日本人を守るため」という言い訳に対して強く言いたい。

以前、イラク戦争の時に武装勢力の人質となった高遠菜穂子さん達を自己責任と言って先頭になって叩いたのは日本の政府だったじゃないの。要するに“日本人を助ける”なんてのはこのたびの批判に対してそう言っているだけで、実際のところは日本人だからではなくて“自分の意に従う人間だけ”というのが本当のところだとしか思えません。

2014年6月13日金曜日

「ノーマ・レイ」  久しぶりに観て気づいたあれこれ



ブルーレイでサリー・フィールドの「ノーマ・レイ」が出ました。‐UNION‐と書かれた厚紙を手に机の上に立つシーンが印象的なこの作品、封切りの時だったかどうだったかずいぶん昔に観ました。 久しぶり

 

この映画というと記憶に強く残る ‐UNION‐ と書いた厚紙を掲げて机の上に立ち上がる主人公に呼応して仲間たちが機械を止め工場全体が静かになっていくシーンは今回も感動の場面でした。

ところが今回観てみたら、ラストと思っていたこの場面の後がまだあったんです。

サリー・フィールドふんするノーマ・レイはこの場面の後逮捕・連行されてしまいます。外からやってきた組合活動家の交渉によって釈放され家に帰ってきたノーマはすでに寝ていた幼い子供たちを起こし、自分がしてきたことこれからあるだろうさまざまなことを話して聞かせます。目の前の現実から逃げることなく向かい合うようになったことを感じさせるこのシーンを見て「彼女は変わった」と感じました。幼い子どもがはたしてどれだけ理解したかはわからないけれど、たとえまだ幼い自分の子どもに対してでも真摯な態度をもって接したということは子どもの心に響いたことだと思います。

この後、解雇されたノーマが工場フェンスの外で、切り崩し・妨害もある中で従業員の投票で組合設立が決まった時の歓声を聴くシーン。次の任地へ向かう活動家を見送るシーン。夜の街から昼の明るい光の中でという違いも、ノーマはもう以前のノーマではないとだれの目にもわかるラストでした。

記憶、印象というのは時によって変わってくるものなんだなぁと改めて感じました。

 

久しぶりに観た「ノーマ・レイ」はこんなに昔だったかなぁと思う79年の作品。描かれている時代は78年。(同時進行じゃないの!) 光の具合・色合い・暗さがドキュメント風、とてもシリアス。フイルム・音・絵の作り・画面、手持ちかと思うフレームの動き最初ドキリッとしました。アンチハリウッド映画の雰囲気。

この映画、なんでも実話をもとに作られたそうです。地域の状態・男女関係・女性差別・黒人差別。このころ(1978)はまだまだこのようなアメリカ合衆国南部の“町” だったんですね。  

 こういう閉ざされた地方の小さな町の変革変化は“外から”やって来ます。ノーマは町から出たこともなく取り立てての教育もない。 女性であり、早くに結婚し離婚。今は父親の違う子とともに親の家に同居している。「男がいないとだめなの」と複数の男性と隠れて交際している。

ホテルで男性と密会していたころは、日曜には礼拝に行き信心深い女性と言われ。組合設立のために町の外からやってきた活動家に一人の人間・女性として扱われ、主張してもいいんだと気付き、なすべき目標も見えてきて変わりだし。町に根深く残る黒人差別の中で、黒人と白人が同席しての集会会場としていつも通っていた教会ならと牧師に救いを求めたとき、その牧師もほかの人と変わらず黒人を差別していた。町で差別があろうとも、心のよりどころだった教会の中ならばという根底が崩れてしまって教会にいかなくなると信仰心がないと言われる。

この映画、社会問題を扱った映画ではあるんだけど同時にキリスト教の考え方・文化にまで踏み込んでいる映画だと感じました。

2014年6月11日水曜日

予告編作りの進化にやられた「グランド・ブダペスト・ホテル」


「グランド・ブダペスト・ホテル」を観てきました。よく言えば不思議な雰囲気を持った作品。結構な入りでびっくりしました。

このところ 行きたいッ!と思う作品がない中で(厳密に言うとシネウインドに一二本あったんだけどこのところ足が遠のいていて)2月だったか3月だったか劇場廊下のモニターで予告編を目にしてからずっと楽しみにしていた作品。それに、このたびの封切り日が私の誕生日、そんなこんなで期待の大きかった作品でした。
 観た感想。良く言えば“何やらわからないけど、何か魅力がありそう”“不思議な雰囲気”を持った作品。同時に、決定的にここがダメだ!というわけではないんだけれど正直なところ「予告編がすべて!」という作品でもありました。
観て楽しく終わってハッピーという作品を思い浮かべていたので落差を感じました。ここまでとなると予告編の出来・素晴らしさをほめるべきなのかもしれませんけど、「予告編にだまされた!」という感じでだいぶがっかり。

 

先日、ある番組で映画の予告編を専門に作っている会社が紹介されていました。
昔の予告編というと粗筋や出演しているスターを紹介してくれるものでした。それで十分足りるし本編のほかにほんのさわりだけだけれど何本もの作品を観られて楽しみだったものです。
でも今は違っているんですねぇ。ある意味監督の意図とは違ってしまっても、配給サイドのこの作品はどの売り方がいいだろうか・しようかという意向に沿って予告編を作り出すのだそうです。
それで腑に落ちました。予告編を観て気に入り、いざ観てみたら全然違うということがあったのはそのせいだったのですね。

 
ところで。
もちろん違う作品ですしどの作品のどこというわけではないんですけど、観ていてウディ・アレンのことが頭に浮かびました。ウディ・アレンだったらもっと上手にまとめただろうなぁと。