2014年6月16日月曜日

3・11後 ドナルド・キーンさんはなぜ帰化したのか その一因


「ドナルド・キーン・センター柏崎」につい先日念願かなってやっと行ってきました。
昨年、私のところから車で約一時間ほどの柏崎に記念館ができるということを知りずっと気になっていたのです。なぜ柏崎なの? 

そしてそれ以上に当たってみたかったのは、東日本大震災 311(福島第一原発事故)後 日本から逃げ出す人さえいた中で外国人・アメリカ(合衆国)人で年齢も行っている、誰に言われたわけでもないのになぜ日本に帰化したのか、なのです。 
 

 ニューヨークからそっくり移築したキーンさんの書斎にいた女性から「どうぞ腰を下ろしてください」と勧められ、キーンさんも腰を下ろしたであろう椅子に腰を下ろさせてもらい、これまでのいきさつをよどみなくとても詳しく話してもらいました。そのおかげと展示を視て、これまでの縁と人となりをいくらかでも理解し共感・納得することができました。

詳しくこれまでの業績をここで紹介するというような書き方はしませんが、ここで聞くことのできた話、そして映像や展示を見て知ったこと共感できたこと。それは、昭和20年に高見順が上野駅で見かけた被災民への思い「私の目に、いつか涙がわいていた。愛しさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、死にたいと思った。否、私も、今は罹災民ではないが、こうした人々のうちの一人なのだ。何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして、心から日本を愛し信じている庶民の、私も一人だった。」高見順「敗戦日記」より、であり。
コロンビア大学大学院時代の恩師・角田柳作先生の存在は「日本学者として以後私がやったすべてのことは、コロンビア大学大学院で角田先生のもとにいたあの一年半の間に、すでに予見されていたのです。」とまで言わしめた出会いだったのです。

 私から見ると、最後に味噌をつけた生き方の人もいますが、とにかく功成り名を成した多くの著名人と親交がありました。その出会いの中から、日本との最初の出会いであった「源氏物語」、古典以外の日本の文学→文化も研究・紹介するようになったんだそうです。 
 交友のあった人たちの中にはショッキングな自死を選んでしまった人もいました。キーンさんにとってもショッキングな出来事であっただろうと思います。

 ところで、キーンさんは第2次世界大戦中海軍語学将校として、争いをやめ降伏するよう働きかけたり救出したり、日本兵からの情報収集そしてその過程で日本兵の書き残した日記を目にしたりしていたそうです。私はここが一つの大きなポイントだと思います。有名な人と交流があり有名な作品に触れていただけでなく、名もなき市井の一人一人の日記にふれ注目したからこそそんな時でも心が折れなかったのではないかと思うのです。 

 
 そのほかこのたび知った、私・私の今そしてこれまで住んでいたところとの縁がたくさんあったことにも驚かされましたがそれはまたの機会に…

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