2014年6月25日水曜日

私のこだわり


3(私を含めて)のために、忙しい皆が集まってくれました。前々からこの日を楽しみにして、なんて集まりではありません。儀式としてというところかな。でもありがたいことです。感謝

参加した人たちから一言ずついただきました。えーッそんなところまで知っていたの! と驚いてしまうようなことを口にする人もいたけど、お定まりの言葉の後が続かない人も。   

座がにぎやかになってから、一人改めて「○○さんとは喧嘩もしたけど… 」と声をかけてくる人がいました。今日は儀式の場だからとあえてその話題には乗らないようにしましたけど、断じて あれは喧嘩じゃないよ!  先日の革新懇総会の時の講演会の話ではないけど、力の拮抗状態にあるもの同士の“激突”なんかじゃありませんでした。喧嘩じゃなくて、大きな声で怒鳴った者勝ちの一方的なパワハラでしょ。 

私“俺が俺がはいや“ やせ我慢だとわかっています。でも私のこだわり“私の美学”のつもりです。私職場では、自分が思っていることを他の人が同様に口にし行うならばそれでいい、同じ組織同じ理念の下で進んでいるならば、と思っていました。でもそんな思いなんて通じなかったのでしょうねぇ。何も言わない人、もしかしたら言えない人とさえ思っていたんじゃないでしょうか。だから生まれた“事”だったかもしれません。そういうことで言うと私にも原因はあったと思います。

 

 ところで、どういういきさつでそんな価値観を持つようになったのでしょう。少し考えてみました。

 

昔々勝賀瀬という人がいました。このことはもう何度か話しているので知っている人もいると思いますけど改めて。勝賀瀬さんは社会的に虐げられ生きていくこと日々生活していくことが大変な人たちの集落・地域に建つ映画のセットに出てくるような古い長屋に住む小さい地方都市のとはいえ市会議員さんでした。集落内を走る道は当時でももう見ない土の道でした。これ私のいつものパターンだけど、そのギャップがすごく気になって足を踏み入れるようになったのです。

通ううちに縁ができた人、お邪魔したお宅。出されるお茶、器。こんなの見たことない、初めて見る。そんなことがたくさんありました。そんな中、何か文章を書くようなことになると顔を出すおじいさんがいました。物静かで一人だけ字がダントツにきれい。実はこのおじいさん、戦前 自身は戦争に反対だったのに“家”家族のために軍属になってしまったことを深く悔いて戦後ここに住んだといういわくのある人でした。そんないきさつを認め、そんな生き方を認め、その能力を認められている人でした。(きっと、認めてもらっているという確信が意識しているかどうかは別として持てたんだと思います。)

 勝賀瀬さんは戦後レッドパージされここに移り住んだ人。中央官庁から地方視察に来た高級官僚が会いに来たりするほどの人でした。それほどの勝賀瀬さんもこの人を認め一目置いていました。この人は決してでしゃばるようなことはしない人だったけれど、そんなこの人を私はかっこいいと思ったんです。

 なんでかっこいいと思ったのか、そのように立ち居振る舞いたいと思ったのか、してきたのか。口で話はできます。でもそれで納得してもらえるかどうか確信は持てません。参考までに次の話を載せて一区切りにしておこうと思います。

 先日行ってきた柏崎のドナルド・キーン・センター。そこで知ることのできたキーンさんの思い。昭和20年に高見順が上野駅で見かけた被災民への思い「私の目に、いつか涙がわいていた。愛しさ、愛情で胸がいっぱいだった。私はこうした人々と共に生き、死にたいと思った。否、私も、今は罹災民ではないが、こうした人々のうちの一人なのだ。何の頼るべき権力もそうして財力も持たない、黙々と我慢している、そして、心から日本を愛し信じている庶民の、私も一人だった。」高見順「敗戦日記」に触れたときの感じ。その時思った 感じた そしてその後を方向づけてしまった、と同様のことが私にも起こったということなんだと思うのです。だから、口で説明してわかってもらえるようなことではない出会いがあったということだとおもっています。

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