2010年10月30日土曜日

1-11-15.3 レンジャーの人たちのテント


レンジャーの人たちは、建物出入り口を背にして右前方に小型のテントを張りました。

1-11-15.2 滞在中絶えることのない焚き火

  左前方には大きなたき火。そのまた左には木の枝で囲ったシャワースペース。

 たき火の周りには、木の枝とか薪とゆうより、木の幹そのものが、ゴロンゴロンと何本も用意してありました。
  ここに滞在している間中、この火を絶やさずにいてくれるのだそうです。
 
 
 
 

1-11-15.1 ジャクソンさんに感謝 土間に張られたテント

  悪天候のため,Nガイドの建物内の土間にテントが張られていた。
 “テント泊”は日程表でみていたし、ホテルはもちろん、宿泊施設があるような場所でないのもわかっていたのでテント泊は驚くこともないし別にかまわないのだが、期待していた“満天の星のもと”で眠るとゆうのはかなわなくなった。

 ただ、確かに、降り通しではないのだが雨は降るし、地面は湿っているので、土間とはいえ屋内なので暖かい。

  早め々々の好判断をしてくれたジャクソンさんに感謝。

2010年10月26日火曜日

伝えるとゆうことは難しい

 NHK杯スケートでのYJ“解説員”の解説が、いつものことながらおもしろくない。

 ジャンプをすれば「トリプル○○」バランスを崩せば「バランスを崩しましたね」手を着けば「手を着いてしまいましたね」転べば「転びました減点ですね」と“解説”。

 そりゃ事実だろうし、こうゆうスタイルの解説者なのかもしれないけど、聞いていて何にもおもしろくない。

 なるほどと教えられ納得・満足することも、演技の裏に、プレイの一つにそうゆう話があったのか、と胸を熱くすることもない。

 見てればわかることをわざわざ言うだけのではおもしろくは感じないんですよね。自分の思いで話す言葉も聞いてみたいんです。

 今回村上佳菜子さんの感情豊かな演技は好感を持ちました。それとともに浅田真央さんの表情は、こちらの方までつらくなりました。
 浅田真央さんの5年前、村上佳菜子さんの5年後とゆうことを思ってしまいました。

 難しいですね。

考えすぎていないか!?  感動を呼ぶのはどっちだ

 今日は気持ちの良い日でした。(10月23日土曜日)


 日の出前、朝靄のなか、群馬県境に近い湯沢町の三国地区文化祭にゲスト出演するグループのスタッフとして出かけました。

 学芸発表会に参加した、小学校・保育園の子どもたち、父母や地域の大人の人たちの出し物、見に来ている人たち。なんだかなつかしいふんいきがしました。
 上手いとか下手とかではなくて、ほんわかとした気持ちになれました。
 ついつい、新しいものをとかもっとこったものをとか思いがちだけど、必ずしもそうでなくてもいいんだなぁと感じました。
 穏やかな天候に恵まれた一日。気持ちも穏やかに、そしてリフレッシュの一日でした。

原点  ヒューマニズム

 先日ヒューマンライツ“ワッチ”(当日土井さんはワッチと言っていました)日本事務所の土井香苗さんの話を聞く機会がありました。

  能動的な土井さんの生き方自体も感じるところがありましたが、話は
・人権意識の重要性。
 なにをしたらいいの、とゆう“ヒューマン”な動機が重要。
(これって問題の本質をつかむのにも、解決していくにも、
                                                    本当に大切なことですよね。)
・組織は追いつめる 人は共感してもらう。
・運動スタイル、運動の継続・拡大スタイルの多様性。
  手弁当のボランティアスタイルの運動だけでは問題は解決し ない。
労力を提供する・労力なら提供できる人はそのスタイルで。お金を出せる人は資金で支援を。
富裕層や企業にも協力を求める。著名な人、行政や各種機関にも協力を求めていく。等々いろいろ学ぶものがありました。

 会場からの質疑に応える形で、みんなが自分の手段で情報発信をしてほしい、とゆうことも話していました。

 でも改めてスピーカーズコーナーに書予定はなかったんです。
ところが、少し前に新聞を見ていたら、伊藤和子さんとゆう、ヒューマンライツ“ナウ”の事務局長さんの記事が掲載されていたのです。
 内容から、“ワッチ”同様に人権問題を扱う団体とゆうことがわかりました。
 それではたと困ったのです。どちらも人権問題を扱っている、名前も途中まで同じ。どう違うの、なんで違うの、と。
 さっとですが、ホームページも見てみましたが、“ナウ”の方の理事にワッチの土井さんの名前も連ねられていてまたわからなくなってしまいました。
 じっくりと見比べてみないとだめなようですね。

2010年10月25日月曜日

1-11-14 エウノトの青年

 集落が見えてきました。

 着飾ったマサイの青年がこちらに歩いてきます。
 Nガイドの口調が突然変わって「写真撮らないで」!と。
 マサイの人たちは写真が好きなのに、タイミングが悪いと“命に関わる”こともあるのだそうです。
 特に今歩いてくるこの青年は“エウノト”真っ最中なので細心の注意が必要なのだそうです。
 “エウノト” マサイの戦士になるための儀礼の間は、精神的にも高揚状態なので一段と気をつけないといけないのだそうです。
  幸いこの時歩いてきた青年は,Nガイドの知り合いだったようで事なきを得ました。
 
 そんな経緯があったので、撮りたかったんだけどこのときの写真は一枚もないのです。この青年“ハレ”の服装、雰囲気ですてきでした。

1-11-19 携帯電話

小高い丘の上にどう見ても巨大すぎる不自然な木が!
人工の木でカモフラージュされたアンテナでした。
 この戦況のやりとりはすべて携帯電話。
 確かに、ずうっと線を引くよりアンテナをたてる方が安いし簡単だから、特にインフラ整備の遅れている国なんかは携帯の普及が進んでいる、とゆうのは知っていたけど。
 それにしても、こんな電気も水もないところで、携帯をバンバン使っているのは、少し妙な感じ。
 段階を踏んで(文明の面で)発展するのではなくて、一気に変わるときってこうゆうものかもしれない。どんどん変わっていく物と変わらないもの、それが同時に並行して存在するとゆうことな訳だ。

 ちなみに、ジャクソンさんの使っている携帯はプリペイド式でした。

2010年10月24日日曜日

1-11-18 マサイの慣習

 空も、向こうの木々までもすごく奥行きのある広場で少年たちが弓の練習をしていた。

 うまく当たる物もあれば、手前に落ちる物もある。集落のリーダーのジャクソンさんも模範を示して参加。
 まさにイメージ通りの、スリムな体つき・足の少年と話す。
 片言のスワヒリ語マサイ語そして英語で。
 
 それによると、これ(弓の練習)はマサイの慣習なんだそうです。
 そして、なにより、今は“戦争”状態なんだそうです。
 そういわれてみれば、ジャクソンさん以外は皆子供か、日本で言えば中学生くらい(一人だけ17・8くらいかな、と思う青年がいたが)。大人の男性がいない。
 戦争と、言われて初めて気づくくらいの“のどか”さだけど、死者も出ているとのこと。
ミサイルなんかを使う戦争ではないので、前線と後方がはっきり区別されていてこうしていられるのだろう。

1-11-17 マサイの戦士になるための修行!? “エウノト”

 その集団・社会において大人として認められるための通過儀礼。もちろん日本にも昔からあります。
 でもマサイのこの通過儀礼・エウノトは私の想像を大幅に超えたものでした。

 何年もかけて、とか一生のうち何回にも分けて、そして行う内容も様々、いくつになったらとゆう形だけでなくて受けるに値するとまず認められて初めて受けられる等々、世界中に様々な形でこの通過儀礼は存在しています。

 このマサイのエウノトも日本とは違う独特の約束ごとを持っていました。
・臨める年齢は何歳とはっきり決まっているのではなくて、受けるに値すると認められて初めてできること。
・エウノト自体も何年にもわたること。
・早い遅いだけでなく、体が弱いなどで受けられない人もいること。
・何歳になったらとゆうわけではなくて、幅のある"世代”といった方がイメージとして近いこと。
・この集団が、同期のグループとして持ち上がっていき、大きな役割を担っていくこと。

 このエウノトで、マサイの伝統、立ち居振る舞い自然の中で生きていく知恵・技術、気力・体力を鍛えられ、受け継いでいくわけだ。

 そして、最後の儀式として、ライオンを槍でしとめるとゆう難関が待ちかまえている。

 なにが難関て。ライオンと戦うのはもちろん大変なことだけれど、現在ライオンは保護動物になっているので、レンジャーに見つかると罰せられるのです。
 その罰とゆうのが、戦士の間伸ばしていた髪の毛を切るとゆうものだそうです。
 だからこそ罰になるのでしょうが、それは大変な辱めで、そうされた戦士は自ら死を選ぶとゆうこともあるのだそうです。

 レンジャーもマサイ族とゆう時は、大変だろうなあ、複雑だろうなぁ、と想像に難くない。

1-11-13 タイヤの跡(痕)ダメージ大きそう

保護区内の道路 村へ向かう坂道はもっと石がごろごろ
 相当急な、石がごろごろしているがたがた道を登っていく。エンジンはうなり声をあげ、車体はガタタタタタとすごい音と振動。大きな声で単語を叫ぶようにしないと聞こえない。
 落石なのか、ぶつかったら間違いなく車が壊れるだろうなぁとゆうサイズの石も、どかす人もいないのか でんッ とかまえている。
 前方に、土砂崩れでとても通れないところがでてきた。
 
 レンジャーのンギョネさんの指示で右折。
右折した道も、これまた急な道。
ガタタタタとしばらく登っていくと、今度は道を離れて脇へは入れとの指示。この道も、草原を掘り下げて道路にしているので、抜け出すには土手に乗り上げるようにしないと進めない。
正面向きでは登れないので、まず左前輪を乗り上げさせる。
フロントガラス越しに空が見える。グワァンと、人も荷物も揺すられる。
 入ったところは、低木がちらばる野原。

 ンギョネさんから、あっちへ行けこっちへ行けと指示が出される。
ヌルヌル滑りながらも、ムガネさんはぬかるみにはまることなく車を進めていく。
 でも、車の通った後は、しっかりタイヤの跡が残り、ダメージ大きそうだなぁ。

1-11-12  レンジャーのンギョネさんとサイモンさん

 外部の人・観光客が泊まる場合は、レンジャーが同行しないとだめとゆう決まりだそうで、ここで合流する。


 体格の良いレンジャー二人が乗り込んで、急に車が狭くなった感じ。
 厳しい表情ではないけど、小銃を持って無言なので少し緊張。お互い様だろうけど。
 とりあえず、私の名前を言い。今夜お世話になる二人の名前を教えてもらう。
ンギョネさんとサアイモンさんとゆうお二人でした。
 これだけでもずいぶん和んだ感じ。

1-11-11・2  えーッ。断水してるからノーエントリーだったの。

 エナイボルク村3日目、マサイマラ国立保護区を一日サファリで回った時、ゲートの下の方に動きを止めたままの大きな風車を見つけました。

「あれは何ですか」と聞いたら。風の力で水を汲み上げている井戸とのこと。今調子が悪いみたいで動いていない、だから水がでない、と。

 えーッ!それでトイレの水があんなだったの!



真ん中、出入り口足元のプレート

それで“ノーエントリー”の板がでていたのか。
 すべて話がつながりました。
悪いことしちゃったなぁ・・・

1-11-11 オロロロゲート “ノーエントリー”の看板

 オロロロ・ゲートに到着。


 最後々々と言われながら結構トイレあったなぁ。でも今度こそ最後に間違いなさそう。

 トイレの棟、出入り口足下に“ノーエントリー”と書かれた板があるが、それをまたいで中にはいる。

 中はガランと殺風景。
この先のことを考えて、出せる物はすべて出しておくことにする。

 使用後、天井のタンクから下がっている鎖を引いたら、なにかのさびなのだろうか赤茶色の水が流れ出してきた。
あまり勢いがなかったのでもう一回鎖を引いてみるが、水量がずいぶん少ない。
タンクへの水の出が遅いのだろうか。

 手洗いの蛇口は、あけてみたけど水が出なかった。

2010年10月19日火曜日

1-11-10 マラ川 管轄を分けるゲート

  マサイマラ国立保護区を東と西に分けている、マラ川が近ずくころには雨が上がり、いい天気。景色をくっきりとさせる強めのコントラスト。


 スコールとは違うんだろうけど、大粒の雨がザーッと降って、降り終わると良い天気。ちょうどそんな感じ。
 草むらは別なんだろうけど、道自体の水はけは良い。(はまったら大変!とゆう、ぬかるみはどうゆう加減なのかたまにある)

 場所にもよるのだろうけど、今渡った橋とゲートのあるこのあたりのマラ川は、対岸まで何キロもとゆう川ではなかった。だからこそ橋がかかっているのだろうけど。
 けれど、雨の後で水量も多く、土色の水がドウドウと流れていた。

 
 ゲートを境に管轄が変わるとのこと。
ゲートの向こうは、イギリスの民間団体の運営。
 この団体は、環境保護、そしてなによりも、もともとここに住んでいた人たちへの保証として、若い人たちへの奨学制度も作っている団体だそうです。

2010年10月14日木曜日

1-11-9.2 ムズーリ

  こちらが身を堅くしている間も、途切れることなく車載無線のやりとりが流れている。
 ドライバー同士、常に道の状況を情報交換しているにだそうです。

 ”ムズーリ”とゆう言葉がしょっちゅうでてくる。
どうやら、ありがとうとゆうアサンテより気軽な感じで、話のあいずちのようにはさむ言葉のようだ。
 日本語でゆうと、”どうも”とか”了解”とか”はい”とかゆうような感じなのだろうか。

1-11-9 ぶつかる! 一度止まったら動けなくなる恐怖。

  雨が激しくなってくる。

  雨の時は、道が傷むので道路以外を走らなければならない決まりとのことで草むらに乗り入れる。
  日本の感覚だと、逆ですけどね。

  少し掘り下げて車が通れるようにした道路は赤土っぽく感じるけど、ここは黒土。それも、ほんとに粒子の細かい土のようで、ぬるぬる。
 一度止まろうものなら動けなくなるんじゃないかとゆう恐怖感におそわれる。
  高まったり静まったりのエンジン音。(木に)ぶつかる!と身を堅くするほどぎりぎりまで寄っていったかと思うと、ヌルリッと、曲がるとゆうよりは滑るとゆう感じで車の鼻先が回っていく。こうしてアカシアの低木と低木(背の高い木はポツンポツンとしか生えていない)の間を車は走っていく。
  日本で道路を走っている時とは異なる車の動き、感覚。

2010年10月12日火曜日

1-11-8 マサイマラ国立保護区 入場料

東ゲート到着。


 何かあったのか車は発車しない、ムガネさんが係員とやりとりをしている。
 入場料のことでした。

 当然ながら係員は払えとゆう。ムガネさんは、今日は雨で仕方なく通るのであって、ツアーの時にちゃんと払うからと話す。しばらくやりとりをしていたが、今日の所は払わなくてもいいことになる。

 ツアー料金に潜っていたのでわからなったのですが、マサイマラ国立保護区の入場料は60$でした。やりとりを聞いていたら、話にでてきました。

2010年10月11日月曜日

1-9 ナイロビで最近流行っているもの

 空港から宿舎に向かう途中、ナイロビに入ったら道の脇になにやら奇妙なものが。


あれは何ですか?と聞いたら。

「今ナイロビでは家庭菜園がすごく流行ってるんです。」と。

 趣味と実益を兼ねてなのかもしれないが、道路わきの緩衝帯のほんのちょっとしたスペースや、プランターで緑を育てるのが流行っているそうです。

 これは、ちゃんとしたお店ではないようですが、その苗や鉢を売っているところだそうです。
おき方がおき方だから、最初捨ててあるのかと思いました。

1-11-7.2 カラフルな衣装は生活のため 2

荷物を持った女性たち
 マサイマラ国立保護区はマラ川ぞいのゲートで管轄が分かれていて、今いる東ゲート側は地元の行政組織の管轄。


 もともとこのあたり一帯は、マサイの人たちが生活していたところ。
そこを国立保護区にするにあたり、マサイの人たちから土地を”収用”したのですが。その際、こちら東側は充分な補償をすることなく保護区にしてしまったのです。

放牧を生業とするマサイの人たちは、そのため放牧ができなくなり、つまり生活手段を失ってしまったので、観光客に自分たちの生活の場を、姿をさらすことによって生活をしているとゆうわけです。
 それで、小雨とはいえ、雨の降っている中でも、おそらく観光客なら誰でもでもカメラのシャッターを押したくなるようなカラフルな衣装をまとって、道の脇にたたづんでいるとゆうわけです。

1-11-7.1 カラフルな衣装は生活のため


 心配していた道は今のところ順調。

ただ、天候が崩れてきた。乾期とゆうのにこの空模様、ほんとに異常気象。

 小雨が降っているんだけど、道の両脇にカラフルな衣装のマサイの人たちが散見されるようになってきた。
いよいよマサイの人たちのところに近ずいたようだ。

  Nガイドから「勝手に写真を撮らないように」と一言。

 このあたりの人たちは、観光客に自分たちの集落を訪問してもらって、生活をみてもらったり記念写真を撮ってもらいなにがしかのお金をもらうとゆうのを生業としているのだそうです。
 であれば勝手に撮るわけにはいきませんね。

*この写真の先に、今書いたような、着飾った青年たちがいたんです。
 旅行ガイドそのもののスタイル、扮装で。



 

おみやげシリーズ CD



 写真は、ショッピングセンターウチミで購入したCDです。


 初日、みんなでウチミに出かけて、ミネラルウォーターやマラリヤの薬を買った後、分かれて店内をいろいろ見て回りました。
 どんな品物が扱われているのか、お客の傾向、好みはどんなかななどと思いながら。
 日本でも扱われているものが、こちらではどれくらいの値段になっているかもチェック。
 CDは一枚1,500ケニアシリングでした。(このチェックが後日いきます)

  日本と同じようにお買い得品をぎっしり詰めたワゴンも店頭に見つけました。
 その中に500シリングで、西アフリカの伝統音楽のDVDを見つけたんだけど、再生方式がPAL方式。
 念のためと思ってお店の人とやりとりしたんだけど、やはり「日本では観られません」と。残念。
*日本に帰ってから、パソコンでなら再生できることがわかりました。買っておけば良かったー!

 ちなみに、塩は500g10シリングでした。

1-11-6 車中で食べた“サモサ”


  お昼、人間の方のエネルギー補給は、この先の道が不安とゆうことで、合議の結果、
目的地に向かうこの車中で軽食をとるだけにする。


 変更した道でも不安とは。よっぽど降ったんですね。

 とゆうことでNガイドが買ってきてくれたのは、油で揚げたスティックポテトと"サモサ”とゆうチマキ様の形の、笹のところを餃子の皮に変えて具をくるんだもの。
 サモサは、肉と野菜の2種類を食べました。
 味の方は、こうゆう物だと思えばこれはこれで、まずい訳じゃないんだけど、値段の割に小さいとゆうか、具が少なくてずいぶん油っぽいな、とゆう印象。

 でも、カロリー的には腹持ちしそう。

1-11-5 スタンドのみやげ物店 CD購入


 燃料補給はまだ終わらないようだし、Nガイドもまだもどらないので、この時間を利用しておみやげ物やさんをのぞいてみる。


 「見るだけでも良いですか」と言って入ったのにお店の人がぴったりついてくる。そして品物に目を留めるとすかさず説明が始まる。
 旅はまだこれから。お金を落とそうと思っている所はこれからなので、ここ(お店)では本当に見るだけ、お礼を言って外にでた。
 さすがにお店の外まではついてこなかった。勢いとしてはついてきそうな勢いでしたけどね。

 と思っていたのに。車に戻ってスライドドアを閉めようとしたそのタイミングで、CDを手にした人に捕まってしまう。(さすがに、閉まっているドアを開けてとゆうことはありません)
 収録されている曲目を見たら「ハクナマタタ」が入っているので,さて困った。("ジャンボ”とゆうのが正式な曲名のようだ)
 値段を聞いたら3000ケニアシリングとのこと。(値段を聞いたら。値段の交渉になったらもうだめですよね!)
ジャシー近くのショッピングセンター・ウチミで1,500シリングでCDを買っていたので、高い!
「ナイロビで一枚1500シリングだったよ」と話したら「じゃあ、いくらならいい」とゆうから「1000」と言ったら「それではやっていけない」とゆう。
「じゃあ1100は」とゆうと向こうも100ずつ下げてくる。パターンですよね。
結局1300で落ち着く。
 支払いの段になったら、シリングが1200しかない。ドルでも良いとゆうので、1ドル札を渡す。
これしかないと言って1200にすれば良かったと思ったが後の祭り。高かったのか安かったのか。

 (後日、ナイロビに帰る道中でこのスタンドに再びよったとき、ドアが開いたとたんに車に頭をつっこんできた人がこのCDと同じ物を手にして5ドルで良いと言ったので、思わず「少し前に1300で買ったよ!!」と少し強い口調で言ったら、ぴたり通じたのかさッといなくなった。)

1-11-4  最後の“町”ナロク ここを最後にトイレのない世界に突入!?


スタンド裏側 トイレ出入り口

 最後の“町”ナロク ここを最後にトイレのない世界に突入!?

 ナイロビからマサイマラに向かう道中の最後の町ナロクに到着。
食べ物やお土産のお店の併設されたガソリンスタンドにはいる。車も私たちもここでエネルギー補給。
 
 「トイレもここですましておいてください」とのこと。いよいよトイレのない生活に突入か!?

 トイレはスタンド事務所の裏にありました。
出入り口の所にモスグリーンの白衣型の物を羽織った係りの人。
有料トイレなのだろうか。(これまでに、係りの人が居たり自動だったりのトイレの経験がないわけじゃないんだけどちょっと緊張)
 トイレそのものは、コインが必要なところもなく、最新設備とゆうわけではありませんでしたが、臭いもしないし清潔。
 手を洗おうとしたら、先ほどの人がソープの容器を取って私の手の上にワンプッシュ。手を洗い終わったら、今度は壁に取り付けてある器具からサッとペーパータオルを引き出して手渡してくれました。
 いつからいたの!
 ここはチップが必要なのかな!?と思ったけど、ちょうど良い金額の小銭がない。コインは5ケニアシリングがいっこあるだけ。どうしようか。
 トイレ前で同行の人もウロウロ。同じようなことを考えていたみたい。
サンキュー!とだけ言ってさっと行ってしまう欧米系の人もいる。
 いつまでもこうもしていられないので、うまく伝わらなかったと思うけど「これで両方ね」(男性と女性両方のトイレを使ったので)と言って寄せ集めた小銭を渡してその場を離れる。

 走り出した車の中で聞いたら、あそこにいた人はスタンドの従業員で、ちゃんと給料をもらっている人なので、チップは改めて渡す必要はないとのこと。あらあら。
 でも、なれない人は、さっきの私たちみたいに渡しちゃう人もいるんでしょうね。



小便器


2010年10月4日月曜日

1-11 大地溝帯/グレート・リフト・バレー

   「この下に見えるのが全部大地構帯です」と説明を受ける。


 お~おきい。
 たった今からこの中に入っていきます。

   現人類誕生の地として有名な大地構帯。うかつだったけれど、エチオピアの辺りだけじゃなくて、エチオピアからここまで、そしてそれ以上に続くとてつもなく大きな大地構帯。
こんなに大きいものとは。
 今でも年に数センチとゆう規模で活動し続けている現在進行形の活断層。テレビを通じて知っていた所・世界に,実際に入ります。

1-15-28 マゴソスクールにイスラムの子!?


左端の女の子の頭を見てください
  それはないと思いますよ!

 イスラムの子もいるんですか?とNガイドに聞いたとき、一蹴されてしまいました。
 でも、さっき歓迎してくれた子ども達の中に、3人くらいだったかなぁ、頭をスカーフで覆った子を確かにみたんだけどなぁ。と、ずぅっと思っていました。

 帰国後、同行の人、ケニアの撮らせてもらった人に写真をプレゼントと思って作業している時にわかりました。
それがこの写真。
日本でもこんな風にしている子、いますよね。

 キリスト教主義の学校に、イスラムの子もいるとゆうのはすばらしいことだと思ったんですけどね。
日本人の感覚だからこんなことが言えるんですよね。   実際のところは、どちらの宗教、立場から言っても難しいことでしょうね。

2010年10月3日日曜日

映画「いのちの山河/日本の青い空Ⅱ」を観て


 映画「いのちの山河/日本の青空Ⅱ」観てきました。

ストレートに伝わってくる描き方で、幾度も涙が流れる感動的な作品でした。

 この手の作品によくあるパターン。たとえば、ヒューマンな想いで行動を起こした人たちの大本にあった生存の権利(憲法では25条)の説明などでの、“出演者の台詞で話を進める”がなかったわけではありません。
 でも、昭和20年代、高度経済成長期以前とゆう時代は、戦争の傷跡まだ生々しくも自分たちの手で新しい日本を作るんだとゆう気概に燃えていた時代でしたから。今よりはるかに“民主主義”とか“憲法”が現実的な問題として身近だったし口に上った時代でしたので、同様のことは有ったと思います。

 日本全体が貧しかったけれど、戦争を起こした社会への反省、民主主義を定着させようとゆうみんなの想い、今自分たちががんばれば変わる、どうにかなる。そうゆう黎明期、そうゆう時代だったし、そうゆう人たちがいた時代だったのです。
 ですから映画に描かれた、問題、人々のことは、程度の差あれ当時の日本では特異ではなかったと思います。

 でもなぜ岩手県・沢内村で、日本で初めて丸々一年間乳児死亡ゼロを達成、医療費窓口負担なし(年齢を区切って段階的に実施)が実現したのか。
 そこの所、その実現にかかわった人たちをいくつものエピソードとともに描いた作品。

 沢内村のみんなは・雪にはかなわないと“熊でもないのに冬はじっと耐えるだけの生活”・栄養状態が悪く、風を引くとすぐ肺炎になる、そして医者にかかれずあっけなく死んでしまう赤ちゃん・お歳よりは食い扶持を減らすため自死する、そんな現実の前に立ち上がる勇気と、なにより希望をなくしていました。

 この映画の主人公・深沢晟雄は、中国から引き上げ、都会での暮らしを経て、何十年ぶりかで戻った故郷の、幼少期の記憶(祖父が病に倒れ死んでから初めて埋葬のための死亡診断書をもらうため離れた町の医者にかかりに行く。赤ちゃんも、栄養状態が悪く、風邪を引くとすぐ肺炎になる、そして医者にかかれずあっけなく死んでしまう。)と変わらない村の生活・医療の現状に直面します。

 深沢は海外で仕事をしていたことから英語の先生を頼まれ、生徒を通して自分の幼少期となんら変わらないそんな村の現実に気づきました。その後、熱心な行動をかわれて教育長・助役になり、村を変えるにはと村長になった人。
 深沢は、あきらめ立ち止まっていた村人を変えるため、限られた村の予算をやりくりしてブルドーザーで除雪、冬でも隣村の病院に行けるようにして、やれば変えることができるんだとゆうことを実行してみました。(それは、冬でも経済活動が可能になったとゆうことにもつながった。)
 村長として、3つの課題・すこやかに生まれる・すこやかに育つ・すこやかに老いる、のために・保健活動に力を注ぎ・医療費負担の軽減をはかり・産業の育成に力を注ぎ貧困の克服に努めました。 

 この根底には、現場を見・声を聞き、感じる力があり、決断する力があったからに他なりません。人間やっぱり、ヒューマンでなければ。人間には、ヒューマニズム、勇気そして希望が大切だと思います。

逆説的ですが、広域合併がもてはやされ大都市と合併した小さい市町村が、大きな市の外れになってしまい、自分たちで自分の住むところのことが決められなくなっている昨今、小さいからこそできたこと、小さいからこそできること、とゆうのをもう一度考えてみる時にあると思います。

2010年10月2日土曜日

布と子消  親の想い


会場となったお寺の参道 手作りの灯篭が迎えてくれました
この土曜・日曜(9月25・26日)と宮城弁で語る横山貴央さんの公演に行って来ました。
 土曜の方はどちらかというと小さな子どもでも飽きないように、いろんなジャンルの比較的短いお話をたくさん。お話しとお話しのつなぎのやり取り、間合い、押したり弾いたりが、ベテランだなぁと感じさせる展開で進みました。
 何より、孫を寝かしつけるおばさんがせがまれてお話しをたくさんするとゆう設定が自然で、次々変わるお話に1時間を越す公演時間でしたが、飽きてぐずるような子はいませんでした。
 二日目の日曜は大人を対象にとゆうこともあってか、一つ一つの話も長く、はらはらどきどきさせたり、ゾーッと怖い思いをさせたり、声の大きさ調子もがらりと変えて、聴かせてくれました。

 初日の話の中で“間引き”をテーマとした話しがありました。
貧しい寒村でどうにもしようなく、生まれた赤子を間引く・土の神様にお返しする。親は木で子どもの形をとりずっとともに暮らす。
 説や取り決めなどいろいろあるようですが、当夜はお話の最後に「~それゆえ漢字で書くと子消しと書くんですよ。」とゆう説明がありました。

 わたしはこの話を聞きながら、こんなことを思っていました。
「こけしの話」。 こけしを人形(ひとがた)と位置づければいろいろ腑に落ちることがあります。
 もうずいぶん前、昔にこんなことを死ぬまで思っていたとゆう母親の話しを知りました。
昔は布がとても貴重でしたから、接ぎも当てたし行商先で古布をもらって再利用とゆうこともしていました。そんな時代、農作業の時に産み落とした子を木の葉でくるんで弔い埋めなければならないことがありました。その時、せめて布でくるんで埋めてやりたかった、とずぅっと想っていた母親のことを。
 とゆうことを。