いよいよ季節は秋になったのでしょうか。昨日今日(19・20)急に気温が下がり薄物を一枚はおるほどです。
ここ数年季節の区切り夏の終わりとしていたのは魚沼のコスモスの丘行きと三条・楽音祭。今年はそのどちらにもいかずに終わってしまいました。何やかや結構忙しくてコスモスの丘のほうは完全に失念状態。楽音祭のほうは声をかけてもらった劇公演日に重なったというのが理由、表向きは。本当のところは、昨年秋の出来事に起因してジェンベの集まりに縁遠くなったから。
思えば夏前のポンポンナイトも参加しませんでした。昨年みんなで参加した時は楽しかったのにねぇ。もちろんアフリカ音楽・ジェンベを捨てたわけではありません。収集してきた楽器を手放そうなどとは全く思っていません。 こちらに移り住みジエンベを楽しむ人たちと知り合う以前からワールド・ミュージック・文化等々にすでに私自身がふれていた経緯がありますので。
要するに、一年かかったけどようやく、こちらに移り住んで以降作り上げてきたジェンベを仲立ちとするところの生活サイクルを修正することができたというわけです。
ここに至るについては「そんなつもりじゃなかったのに!」という事そして想いについて一言の弁明も許されなかったので正直なところ口惜しい悔しい存念があります。
まあそんなのは聞かされるほうはいい迷惑でしょうし、言ったからと言って元に戻るなんてことはないだろうから最大限好い方向に行ったとしても、言ってすっきりするくらいの効用しかないでしょうけど。
先日観た「アオギリにたくして」にこんなシーンがありました。主人公の女性は、同じ出版社の上司・男性と部下そしてそこを超えた関係を原因に退職、二人の関係にも終止符を打った。と思ったら気づいた妊娠。「もちろんおろすんだろ」と迫る彼氏。結局のところ二人は一緒にならず、彼女一人で子供を産み育てることを選択するのですが。映画が進んだところで出てくる仕事の進み具合を聞く電話のシーンの時に彼は「すまなかった…」と。
私はこのシーンを見ていて、例へあのような内容だとしても、ボタン一つで切れてしまう電話のつながりになっていたとしても、線がつながっている。 謝る事だけの関係だったとしてもやり取りができたということをすごくうらやましくおもって見ていました。
伝えられる→手段がある→つながっている。つながっていると自覚できたらどれほど幸いか。
今離れて暮らす子どもたち。こちらのほうから連絡を絶つようなことは全くしていないけれど返答がない。 一体どうしているのか、何をしているのか何か困っていることはないかと思うけれど全く連絡がない。自分の生活ができてくれば別々に暮らすことは何ら不思議なことではない。ただ、連絡を取ることができない繋がっていると感じられないのがとてもつらい。
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