2011年9月27日火曜日

望ましい組織形態 人と人のつながり方とは  (大震災支援活動の時に)


3月東北関東大震災の支援活動を坂総合病院で行っているときに感じたこと、気づいたことです。
組織が大きくなれば、例え有能な人だとしても一人の人がいくつもの分野を受け持ち指示を出していくのは実際問題困難だし。組織にとってもよくないこと。

支援活動をする中受け入れ先の人たちの動きを見ていて、組織として、どのような人と人のつながり、形が良いのかに思いが行ったのです。
それで私思ったんですけど、例えるならば傘の形が良いと。



傘のように、心棒となる骨があって(人 理念 目的)そこから何本もの骨が360度延びている。
この、周りに延びている骨が、組織で言えばサブリーダー。重要ですよね。 
心棒が大事なのはもちろんですが。 傘においてはこの骨、組織においてはこのサブリーダーが居て、しっかりしていないとちゃんとした組織にはなりません。
そしてこの骨と骨の間を、傘のように面で大勢の仲間がつなぎ、ほかの骨・サブリーダーとをつないでいる形がいいと思います。

心棒・リーダーとしてはすべてを自分の監督下に置こうとするのではなく、思い切って権限を委譲し伸び伸びとさせる。首輪のひもを長くするのです。
組織の理念 目的の共有、研修(失敗を認めることも含めて)も必要ですね。

坂総合病院の職員の動きを見ていて、よく研修しているなと思いました。思い切って抜擢して育てているなと感じました。
対して私が属しているところは、みんなの頑張り(我慢)もあって規模的にはずいぶん大きくなってきたと思います。故に、組織的課題も拡大してきたと言えます。
こちらのは例えて言うならば、太くしっかりしているかもしれないけれど、棒に縛り付けられた糸が延びている形ですね。
棒から直接糸がつながれている、十分なサブリーダーが育っていなくて糸と糸の間も面でつながっていない状態ですね。

1-15-22 マゴソ 部屋の配置

 門をくぐって中にはいるとまず正面に白い大きな水タンク。その右、敷地中央が広いスペースになっていて、そのスペースを見下ろすように2回建ての校舎が周りを取り囲んでいます。
その他一階部分、門の正面側は日本で言えば保育園児のいる部屋。
そこから時計回りで、土間形式の教室(机をどかして、ここで太鼓の練習をすることもある模様)。
門の方に戻る形で回り込むと2階部分を支える柱と土の壁だけの状態のところへ。この空間が今取り組まれている拡張工事によって教室になるところです。
この土壁の向こうを今歩いて来たわけです。



続いて。
降りるときは後ろ向きでないと危ない階段で、2階に上がります。
教室を二部屋見せてもらいました。

最初に見せてもらった教室は、外からの明かりが入るところとしては黒板の側に出入り口が一つ有るだけで窓のない教室でした。照明はありません。(正確に言うと、一階の教室も同様でしたが、造りとして窓洋の物がないわけではないのですがみなふさがれたいました。)

出入り口からの明かりが黒板に当たりますから見えないと言うことはありませんが、日本の感覚で言うと奥まったところは薄暗くて目が悪くなるんじゃないかと心配になるほど。

もう一つの教室は出入り口の反対側に一つ窓がありました。
これだけでもさっきの教室よりずいぶん明るく感じます。風もはいると思います。
こちらの生徒さんたちはさっきの所よりも学年が上。日本で言えば小6か中1くらいでしょうか。

1階2階を比べると、1階は年少2階は年長という使い分けをしているようです。

どちらの教室も子どもたちがぎっしり。


このほかに、後で改めてふれますが、図書室になる予定の部屋、寮(?)2段ベットが何台かおかれている部屋、物品販売の品物を作っている作業場がありました。

2011年9月25日日曜日

機転が利く研究者たれ

「型にはまらず機転が利く研究者たれ」

研究を続ければ自分の想定とは違う結果が出ることや、思うようにいかない時が必ず来る。そんな時は切り口を変え、どんどん考え直していく姿勢が求められる。

   瀬川浩司  
           東京大学 先端科学技術研究センター教授

         先端人
              日経産業新聞 2011年9月22日

2011年9月24日土曜日

世界中の「平和」という文字を光で描きました

2011年=日独交流150周年 
両国が経験したこの150年を振り返れば、テーマは平和しかありません。
今月(9月)910日首都ベルリンのランドマーク、ブランデンブルグ門に世界中の「平和」という文字を光で描きました。

照明デザイナー 石井幹子 さんの言葉

    仕事人秘録 明かりで元気に⑩ より


      日経産業新聞 2011921

2011年9月23日金曜日

F いきなり飛び込んできた音もリズムも感じないEメール


携帯電話の着信拒否設定のことを思っていて、気づきました。

Eメールの方も迷惑メール設定がされていて着信即削除の設定がされているんだろうなぁと。



以前から太鼓の仲間ではあったけど取り立ててひたしい間柄というわけでもありませんでした。

そんな私のパソコンにいきなり飛び込んで来た一通のEメール。

その文面からは一切の音もリズムも感じ取ることができませんでした。

書いてある言葉以上にそちらの方が気になって

このメールを書くに至った気持ち、その時の部屋の感じ、その時の姿が目に浮かび 返事を書かずにいられませんでした。


・・・・・・・・・ 
 

いずれにしても、86日以前 最初のEメール以前のようにはもうやり取りすることはできなくなったんだなと感じています。



最初のメールは、仲間・知り合いだからこそ送信されてきたメール。だけどこれからはそんな仲間としてのやり取りもできなくなるんですね。

必要があって行われる仲間同士のやりとりも、私との間では返事はおろか私から発せられたEメールは受診すらされなくなったんだなと、悲しく切ない気持ちになります。

恋愛感情の生まれるとき  結婚を決意するとき

   恋愛感情の生まれるとき 

     勘違い+思いこみ+妄想 




   結婚を決意するとき

     勘違い・思いこみ・妄想  そこに 勢い

2011年9月22日木曜日

F 正しい選択“着信拒否設定” でもされた側としては…


携帯電話に着信拒否設定をした彼女の選択は正しい選択だと思います。  

今のご時世、いろんな人がいるし いろんなことがありますから。

最良の手段、選択だったんじゃないでしょうか。  



ただし着信拒否指定された側、私としては切ないですねぇ。

私がなぜ かけたのか。どんな思いで電話したのか。

一度も 一言も聞かずにこういう選択をされたということには正直口惜しい気持ちです。



この間のことは、おいおい整理しまとめておこうと取りかかっています。

でもまさか86日までのことが、87日以降このように推移するなどとは思ってもみませんでした。

自分としては着信拒否設定されるようなそんな人間ではないのにと思っています。

(自分では思いますよね 自分でも言えなくなったらおしまいです)



それにしても彼女の側には迷いが全然ありませんね。うらやましいぐらいです。

それだってたやすいことじゃないし、実際限られているし難しいけれど、仕事や人生においてはやり直しの機会は皆無ではありません。

だけど、女性との場合 再チャレンジのチャンスは有りませんね。

F 着信拒否設定

 818日に、話し中のプープーッという音を聞いて、今Fさんは誰かとつながっている!と思いました。
 人は一人の時、孤独を感じたときが危ないんだから。誰でもいい。私でなくとも誰かとつながっていてくれれば大丈夫と、その時はしばらくその話し中を知らせるプープーッという音を聞いてからホットした気持ちでて電話を切りました。

  その後917日に電話をしたら何度かけても話し中で、さすがにこれはおかしいと初めて感じ出したのは先に書いた通り。 

それで私はまた余計なことを考えてしまいました。

私からの連絡、Eメールを遮断するのは良い。私との関係を絶つというのは、私にとってはつらいことだけどこの間のいきさつを思い起こせばそういうこともあるだろう。

でも他の人とはどうなっているんだろう。

 すべてを遮断してしまって閉じこもったら絶対よくない。全部の関係を断つのは絶対よくないと思いました。

 そんなことをするんだったら今こうして私が耐えている意味もない、と気になりました。







今日この分野に詳しい人に何気なく聴いてみました。

「固定電話なら、ほんとに話し中なのか受話器が外れているだけなのか調べてもらえるけど携帯だとそういうのってあるのかなぁ、いつかけても話し中なんだけど」と。
 そしたら、
「番号を登録して着信拒否の設定をすれば、いつも話し中になる。」と。

そうだったのか!。

正直、せつない気持ちで体中が熱くなりましたけど、つじつまが合うし受け入れるしかありませんね。

 誰かとつながっているとホッとしたあの日も、私が勝手にそうとっていただけだったんですね。
メッセージを残した最初の時の番号をFさんが間髪入れず着信拒否設定をして話し中の音が流れただけだったんですね。 

一人で自分の願うように考えていただけだったことがやっとわかりました。

何やってるんだか!!!

2011年9月21日水曜日

F 8月17~18日の気持ち

 今家の庭はムクゲが盛りです。
 少し前から咲きだして、私に夏が来たことを教えてくれていました。
 今朝玄関先に立ったらムクゲの花がいっぱい。
 今度写真送りますね  (817朝)



今朝は久しぶりの雨(818朝)

 こちらはずうっと快晴、そして暑い日。だけどFさんのところはずうっと雨。

 新潟県も広いなあ。Fさんのところまでは遠いなあと思っていました。

 でも今日の天気はFさんの住むところも私の住むところも同じ雨降り。

 ただそれだけなんだけど、何かうれしい。

 今朝(818朝)出かける前にムクゲの写真を撮ろうと玄関にでたら昨夜からの雨のせいか、昨日の朝はあんなに私の方を見て行ってらっしゃいと言ってくれていたのに、今朝はしぼんだりあっちを向いたりこっちを向いたり。

 チャンスはグッと掴まないと逃してしまうんですね。

2011年9月20日火曜日

1-15-21 おまけ  水タンクいろいろ 小分けした水の容器

常にでているわけではないのかな!?
本当はこれも確かめたいところですが、いくらガードがついているとは言っても“ガードが必要なところ”にいるという緊張、午後イスラム教徒の大規模な集会とデモがあるということでの地域のみんなの緊張もあり早め早めに行動したのでそのときはあれもこれも聞くことができませんでした。
ホテルに帰ってからはもう次の予定がありましたし、なによりホットしたのか聞きそびれてしまいました。 


とにかく。全家庭まで水道管が敷設されてはいなくとも地域としては水道はあるようで、それをタンクに貯めておいて小分けに利用しているようでした。

(料金を取っているかどうかについては未確認)

1-15-21 キベラの中の水と電気


マゴソの水タンク
扉をくぐると真っ正面に白い大きなタンクが。

ここのはエナイボルク村の黒い水タンクのように雨水を貯めてというのではないと思います。
どの程度、そしてどのような普及の仕方なのか確かなところはわかりませんが、この地域にも電気と水道は来ていますので。

水はあちらこちらに大きなタンクが有ってそこから運んでくるようでした。水を汲んできたタンクを置いている家を見ることもできました。
ただ移し替えているところ、お金を取っているように思えるところ。タンクの形、色、蛇口の様子は様々でした。






 電気については意外とわかりやすかったかな。
電柱が結構立っていたし全家庭ではありませんが電線が伸びていました。

それこそ日本の冗談にあるような、鍋のふたをひっくり返したようなテレビアンテナが、連なる赤茶けたトタン屋根の中からにょきにょきと林立していることからもテレビ・電気が普及している様子が見て取れます。






いずれにしても、今眼前にいる子どもや大人の人だけでも優に100は越えていますから、(このころすでにマゴソスクール全体の子どもの人数は500を越えていました)トイレに必要とする水は考えないにしても、給食調理のために必要とする水だけでも相当の量になるでしょうし、こうした対策はどうしても必要なことでしょう。

2011年9月19日月曜日

F 私はいったい何を考えていたんだろう。なんにもわからずに。鈍感そのものなんだから。

「自殺しようとしたことがある」と聞いていたものだから、何がきっかけだったのか8171720頃と8180915頃 胸騒ぎがしたんです。

 それで18日夕方思い切って電話をしてみると「電源が切れているか電波の届かないところ… 」というメッセージが。固定電話は「ただいま使われていません」というメッセージ。もう焦ってしまって。

ずうっと前にもらったEメールに別の連絡先が書いてあったのを覚えていたので、そのメールをさかのぼって探しだしやっとかけたところが留守番電話。

どうしたらいいんだろうとほんとにあわててしまいました。

もしやと思いもう一度携帯にかけてみたら今度は話し中のプープープの音。

 直接話ができたわけでも様子を聴けたわけではないんだけどこのお話し中を知らせる音を聞いてほっとしました。しばらくこのお話し中を伝える音を聞いていました。
そして思いました。誰かとつながっている。私でなくとも誰かとつながってさえいれば彼女は大丈夫だと。
それでホッとして携帯を切りました。


917日。リリック(長岡)を会場に行われているアジア映画祭に出かけました。「海洋天堂」を観に。

私の家から50kmほどFさんの住む町に近づいたからでしょうか。多少なりとも日常と違うことをしているせいでしょうか。 声を聴いてみたくなって電話してみました。

話し中。まこういうこともあるか、と思って切りました。

少しおいてもう一度かけてみたけどまた話し中。

 あれ!?と思ったけど偶然ということもあるからなあと切りました。

今度はもう少し時間を空けてもう一度。 また話し中。

 たまたまこちらがかけるときに彼女も電話するという可能性はないわけではないので、気持ちとしては穏やかではなかったけれど上映時間も来たのでホールに入りました。

映画は期待以上。俳優たちみんなもよかったけれどジェット・リーが特筆モノでしたね。私もこみあげてきましたけど会場のあちらこちらから鼻をすする音が聞こえてきました。そういう感動ものの映画でしたね。

ホールに出たところで今一度電話。ところがまたまた話し中。そりゃ可能性はゼロではないけどいくらなんでもこれはおかしい! とさすがの私でも思い始めました。

前にかけた別の所にもしてみましたがまた留守電。
想い直してもう一回携帯にかけてみたけど話し中。

おかしいと考えながら車を走らせ家に帰り、一晩考えてからやっと気づいたんです。

私が誰かとつながっていてくれたと安心したときも含めて、私が知らない設定の仕方があって、結果私が電話したときは通話中の音が出る状態になっていたんだと。

最初からFさんに迷いはなく、その後の揺らぎもないということに、ようやく、やっと気づいたんです。鈍くて鈍くて甘くてどうしようもない私です。

期間更新から映画レンタル 軍服の色 軍隊は建設会社じゃない  連想したことを備忘録的に


3.19東北自動車道安達太良SAに停まる民間と自衛隊双方の大震災支援車両
  レンタルビデオ店の会員カード更新手続きをしてきました。
一頃は毎週のようにレンタル店をのぞきに行っていたのになにがきっかけだったのかパタッと足が遠のいていたのでほんと久しぶり。
更新には、2枚借りたら一枚ただの得点がついていたので(上手ですよね!)久しぶりに各棚の間を巡り2枚(!)借りました。一枚は韓国映画の「ハーモニー/心をつなぐ歌」もう一本は「シスター・スマイル/ドミニクの歌」。
ハーモニーは、決して良いことではないとわかっていながらも犯してしまった犯罪。死刑の人もいる女性刑務所内で、更正のための取り組みとしての合唱団が結成され団もそこに参加するメンバーも自分を見つめ変わっていくところを描いた映画です。ラストで死刑執行(そのシーン自体を見せているわけではありませんが誰が見てもそうだと想起させます)を描くところは少し後味が悪いところですが。
日常の私の行動範囲ではかからなかった一本、前々から気になっていた一本でした。
合唱“団”だから大勢のメンバーが関わるのは当然だし、そのみんなに人生があるわけだから、誰の人生を取り上げるかどこまで取り上げるかの取捨選択は難しいところ。今回取り上げられた人生も皆一本の映画になるような内容重みのあるもの。そういうことで言うとたぶんに端折られた感じがしないでもありませんが、でている人たちみんなもなりきって熱演、女性ならではの母として女性として少女として生きていく難しさも描かれ観ていて共感の涙が何度もでました。

掘り出し物があるときもあるので、たまにのぞくようにしている中古販売のところも久しぶりにのぞいてみました。
ここは別に2枚という必要はなかったんだけど結果として2枚手に入れました。
一枚は小津安二郎監督の「晩春」 もう一枚はベトナム映画の「ベトナム激戦史1967/攻防ケサン基地」。
「晩春」は評判以上に見応えのある作品でした。全体を通して個々の俳優も皆すばらしいんだけど、特に書いておきたいのは原節子の演技、目・表情ですね。鬼気迫るという言葉を使ってもいいくらいぞぞっとしましたね。原節子のすごさを再認識しました。
ベトナム映画の方は、この映画が観たかったから前から知っていたからという作品ではなかったんですが、普段なかなか目にすることのできないベトナムの作品と言うことで購入しておこうと思ったのです。それに値段も360円という値段でしたしね。



このつながりで今日ここに書き留めておきたいのは各時代の“兵服”の色の変遷についてです。


第2次世界大戦前は日本軍。
日本にいるとどうしてもアメリカに関しての情報が多くなるので第2次世界大戦後はアメリカ合衆国の軍隊の兵服の色(柄)、対した国の平服の色について。


日露戦争の時の日本兵の軍服の色はシベリアの 国土・黒土、永久凍土、土の色に合わせて黒。
中国大陸での日本軍の平服の色は黄土に合わせた色。


イギリス軍、インド亜大陸の兵服=カーキ。
イギリスとの関係もあるのでしょう。第2字世界大戦、ヨーロッパ アフリカ地中海寄りの戦いでの軍服もどうようかな。


ベトナム戦争の時のアメリカ軍の軍服の色、緑を基調とした迷彩柄。その後中東を舞台とした軍服の色、サンドベージュを基調とした迷彩柄。べトコンと呼ばれていた南ベトナム人民解放軍は黒。北ベトナム正規軍は緑。ベトナムのほかの作品でも見るたびいつも感じるのがなんと“緑”の多い国だろうか!ということ。軍服というのは引っかかるけど必然だったんでしょうね。

もちろんこれだけじゃなく、雪の山岳地帯では白の迷彩色、ナチスの軍服もいろいろあったようだし、任地 軍務 地位でも様々。
頭に浮かんだものを備忘録的に。



世界では軍隊を亡くした国だってある中で、残念ながら多くの国は軍隊を持ち続けています。
日本の自衛隊の個々の自衛隊員の災害時の働きは記憶にとどめられるべきものだと思っています。けれど災害時の土木作業、物資輸送などは軍隊の本来の役割ではありません。軍隊の本来の目的は建設業でも運送業でもないのですから。

2011年9月18日日曜日

F ある日のヨガ 最中の気持ち  たぶん9・2



  普段の朝であれば心乱れた時でもヨガの呼吸を繰り返すうちに気持ちが徐々に落ち着き 心も済み穏やかになったのに今日は全然ダメ。
アーサナーと呼吸が全然合わない、バラバラ。

 呼吸自体も、ゆったりと長い呼吸 深く長い呼吸が全然できない。

いつもと違いを感じる一番は、いつまでも気持ちが落ち着かないということ。

今日のこの気持ちの乱れ、

人から見れば十分邪念なんだろうけど、言葉の響きに抵抗したいので“雑念”と言わせてもらいます。

 この雑念が心を乱して落ち着きません。

2011年9月17日土曜日

1-15-20 奇跡=私が生まれる前から用意されていたたくさんの偶然の積み重ね


先の見通せない、家と家の間のくねくねとした道を歩き、角を曲がったら突然マゴソスクールの扉が目の前に現れました。
(つまずいたり曲がったり時には先の見えないなんてまるで人生みたい。そんな人生だけど時がくればすべてこのように意味が分かるのでしょうか。)

溝と一緒の細い道。まっすぐではなく家の角角でクランク上に曲がっていて先が見通せないから寸前までわからなかったのです。
学校の入り口は、両側に迫る土壁と土壁の間にある日本で目にする学校の正門のような立派なものではなく扉といった方がいい代物。

ここで大感激。
私すごいことに気づきました。 
考えてみれば、私が関わる以前から、最初からそうだったんですよ、何で今までこのことに気づかなかったのかなぁ。
でもそのおかげですごく印象的な出会いになりました。

それは、今!ここに立って!マゴソスクールの名前の由来が初めてわかった。腑に落ちたんです。

これまでマゴソ マゴソとかマゴソスクールとか言ってきましたが、正式には「ケニアのナイロビ、ナイロビのキベラ地区、キベラの中のマシモニという地域にある、マシモニ・グッド サマリアン・プライマリースクール」 というのが正式な名前だったんです。



クリスチャンの私としては、この“よきサマリア人”という言葉だけでもすごく嬉しいことです。
だけどそれ以上に、Hさんとの出会いからこれまでの年月。
もっと言うならば、それ以前から関心を持ったことチャレンジしてきたこと、バラバラなように見えた多くのことが今全部つながったんです。
多趣味ですねぇと言われながらもこれだけは!と極めていないようで。一通りできるけど誰にも負けません!と自信を持って言えなくて。
自分の中では、すべて関係があってつながっていることばかりなんだけど、もう少し絞った方がいいのかなぁと気弱になったり。でも別のことをしているときに「あッこの前のことはこういうことだったんだな!」と理解が進んで気を取り直したり。

そのすべてのことが
ケニア、マゴソスクールに縁があったのがわかりました。
すべてがつながりました。

理解が深まることもあったし、こうしてすべてのことがつながってきて、私のやってきたこと私のやり方もありなんだということに確信が持てたんです。
感謝

2011年9月16日金曜日

1-15-19 溝をまたいで細い道 ニワトリが脇を

道はさらに細くなってきました。
溝をまたいで歩くようなところも結構あります。
足下が危なくて上なんか見ていられません。


もっとも、道幅が狭い上に家々のひさしが張り出しているのでもともと景色は見えそうにもありませんが。


このあたりの家の壁は彩色なしの土壁。
所々、土が落ちたまま補修されずに骨組みの見えるところがあります。
そのおかげで、構造 発想を見ることができました。

このような住環境 条件のところでも小さな子どもがこちらに「ハアユー」と声をかけてきます。



ニワトリが脇を駆け抜けていきました。

2011年9月15日木曜日

1-15-18  子どもたちの ハアユー


道はいっそう細くなってきました。
細い所では、道の脇にいる子どもたちと手が触れるほどです。
子どもたちはみんな口をそろえて「ハアユー」「ハウァユー」と声をかけてきます。
意味がわかってとか話をしようということではなく、こんな奥まったところでも結構外国人がきていて(今の私もその一員だが)それでこの一言を覚えたというのが本当のところのようです。

2011年9月14日水曜日

F 支えているようで支えられ 支えられているようで支えている [人」 Fさんと私


先日の太鼓仲間のFさんの 「今の調子では対等におつきあいできないから・・・ なにも与えることができないから・・・」「こんな 今の 私では恋人はできませんね…」
を聞いてから(読んでから)、どうにもこの発想が気になっていろいろ思い倦ねていました。

実際Fさんは気づいていないけど、私はFさんのおかげでこの間生き生きとしたというか、自分のやっていることに意味を見いだせたし、やりがい生き甲斐を感じていました。

Fさんの存在自体が、私のやっていることに意味を与えてくれたんです。

Fさんの思いこみ、発想に同意することはできません。

Fさんは持っていないからだめだと思い込んだわけですが、私は逆に持たないからこそ(本当に持っていないかは別問題)そこに私の存在余地を感じたんです。
だって彼女がすべてを持っていたら、余地なんかないし。必要ないですもの。 だから今回は私が補えた(補いあえた)んだと思いますよ。
実はFさんが“持たないことによって”私は多くのものを与えられていたのです。
(私のこういう発想については 5月28日の…晴眼…ブログを参考にしてください)

人と人の関係ってどういうものなんでしょうねぇ。


そのつながりで、表意文字としての「人」という字のことがどうにも頭から離れなくていろいろ思っていました。
人という字は一人の人が他の人に支えられているところを表した字だ という話はすでに知っている人も多いことと思います。(正確な字の成り立ちとしては別のようですが。)

改めて見てみましょう。確かに一人がもう一人を支えています。
何事もなければ胸を張って一人で立っているのも可能なのかもしれませんが、生きていればうつむく時だってあります。
「人」という字の人はずいぶんとうつむき傾いています。支え、つっかえ棒がなければ間違いなくバタッと倒れてしまうでしょう。
そんなことを思いながらもう一度よくみてみると、左側の大きい人、支えてもらっているからこそあんなに傾いていても倒れないでいられるのがよぉくわかります。
確かにそう、だけど今回気づいたのは、右側の小さい人の方のことなんです。大きい人・相手を支えるために、必死に自分の身を傾けてまで支えています。けれど、あそこまで自分の身を傾けていると相手がいなければ自分も倒れてしまう、
つまり 支えているようで支えられ 支えられているようで支えている と言うことになっているんです。
決して片側だけの一方的な関係に終わっていないということに気づいたんです。

深いなぁ

2011年9月13日火曜日

最上級の言い方   もしかして星の数が数えられても・・・


  一般的に、とても多いことを表す言い方に、実際にどれだけ多いか大きいか数字で伝え、そしてそれ以上に多い大きいをつたえたい表したい時は「数え切れない」とか「星の数ほど」と言ったり(実はこれ自体が数えられないという意味を持っている)「無限の」と言ってその多さを表します。
この言い方は、いわばいかに多いかを伝えるときの最上級の言い方ということでしょうか。


ちなみに、すばらしさを伝えるときの最上級は、それ自体がどのようにどれくらいとか、○○のようにと例えたり、それでも足りないときは「口で言い表せないくらい」とか「絵にも描けない」とかになりますね。

以前 歌いながら大きなものを言うゲームをしたことがありました。前の人が言ったものを受けて、ゾウとか鯨とか船とか前の人が言ったものよりこっちの方が大きいぞ!という物を言っていくんです。最終的にみんなが一様に納得する宇宙とか最強の愛がでて終わりと言うことが多いでしょうかね。
ところがその日は結構早い順番のうちに“愛”親、母親の愛だったかなぁ、がでちゃったんですよ。
誰もそれ以上の物を思いつかなかったんだったかなぁ、そのゲームはそこまでだったような。



ところがですよ。そのまた上の言い方があったんですよ。びっくりしましたよー。


先日夏川りみの出ていたソングスを観ていたら、そこで紹介歌われた「てぃんさぐの花」の中に、これまで数え切れない物とされ、それ故に大きな物すばらしいものを表すとされていた星の数を「もしかしたら星の数は数えられるかもしれないが・・・」と歌っているんです。


「あの無数に輝く星、その星はもしかしたら数えられるかもしれないが親の愛 教えは数え切れないんだよ」と歌っているんです。

一度数え切れないものとしておいて、でもそんなに限りのない物でももしかしたら数えられるかもしれない。親の教えは、普通には数えられないほど多い星の数、でもその星でさえもしかしたら数えられるかもしれない、それ以上なんだよ、と。

この発想。この逆転ともいえる発想があつたとは。

2011年9月8日木曜日

私の夏が終わりました  第3回 三条楽音祭

 

 第3回になる、下田ひめさゆり森林公園を会場に行われた三条楽音祭(201194・日)にでてきました。
 

 いつものことながら私いろいろありまして(全部ではありませんがブログに乗せたようなことが)ゼッコウチョゥ!!と言うわけではなかったんですけど、それ故に参加して太鼓をおもいっきり叩きたかったので。 

 楽音祭開始は昼の12時。
お昼前には着きたいな!と思ってでかけました。

 そしたら、あとわずかという所で誘導係の男性がいて「この先はもういっぱいだからここに車を止めて後は歩いてくれ」と。すでに脇には車がたくさん停まっています、 でも確か公園入り口の手前もいい道だった覚えがあったので、一度は太鼓を担いで歩いてみたものの考え直して再び車で会場を目指すことにしました。
 先はやっぱり広くなっています。渋滞もなく車も通れます。

 細い道の区間に車を停めさせたものだから向かう車、返す車がすれ違えず渋滞していたんですね。
 ここの混雑この混乱は誘導が悪いせいでしたね。
 先がどうなっているのかを正しく伝え、駐車させるにもこの細いところには停めさせないようにすれば何とはないことでしたね。


 会場となった ひめさゆり森林公園。ステージは駐車場からスロープや階段を使って上ります。段々畑様に4段ほど催しのできる平らなスペースがあって(ありの巣のようにその左右にもスペースあり)そこにワークやライブのステージ、管理棟トイレ食堂、特設の屋台フリーマーケットのお店などが並んでいました。

 会場を歩く人たちは、普段の生活はどうしているのかなそのときの服装は?と思うような突き抜けた人もいましたけど、全体としてはトリップした人はあまり多くはありません。多くは十分今風だけど、ここで見るとまともというか地味?という人が多く見受けられました。

 それよりも印象に強かったのは、子どもが大勢いるということ。それも、以外とこの楽音祭のイメージ通りの格好の人たちの方が子どもをつれていると言うことでした。 

 さてJUNJUNフレンズで担当したアフリカンドラム/ジェンベ・ワークの参加者は私たちも入れて15人くらい。
 初めてジェンベを叩くという方もいましたが“ヤンカディ/マクル”を最後まで通すところまで行きました。
 もちろん完成ではありませんが、まこんなもんでしょ。

  ワークの後会場を見て回りました。

 フリーマーケットは、店(お店を出している人の服装、感じ)と店の品ぞろえが少し違います。レゲエとかアフリカその他民族系のものネイチャー系のものが多かったかな。そのほか、まともというかこの会場にあるのが似合わないようなお店もありました。(地元のメーカーの31,000円の靴下屋さんとか。何でもありと考えればこれも貴重ですが。)

  ステージではライブが行われていました。
大とりの後の“おまけ”の私たち以外に今回はレゲエやラテンの5グループが出演です。
 私が行ったときはちょうどセネガルのラティールシーさんが加わったアフリカンミュージックグループのライブ中でした。
 このグループの音、演奏は普段私たちが演奏しているものともちょっと違う、ギターなんかはリンガラみたいに響くときもあるけどそのものズバリでもない。いうならばこのグループの音楽でしたね。

 この演奏に合わせてステージ前では、太鼓を通じて知り合いのジローさんが、ビールの500ミリリットルカンを持ちながら踊りまくっていました。
 ほかにも踊ってる人が大勢いたけど勢いが違います。ブンブン踊るジローさんの周りだけ少しスペースが空いてました。“あくよなぁ”と納得の勢い。
 話しの最中も身体が揺れてるんです。アルコールを飲んでブンブン踊れば酔うわけです。

  出番は一番最後なのでまだまだ時間はタップリ。写真を撮ったり、仲間と話したり、アブを払っていました。その甲斐もなく刺されてしまいましたが。(一カ所だけだったことは不幸中の幸いと感謝すべきでしょうが)

 さて、そんなこんなしてすごしていよいよ演奏の時がきました。
 事前の話では大勢メンバーがそろいそうな話でしたので楽しみにしていました。
 ふたを開けたら、くま きん とん女性三人組を筆頭にいつものJUNJUNの仲間、地元のジェンベ奏者、それにさっきワークに参加した人までいて久しぶりのジェンベ“隊”。
 

 楽しみにしていた“セッツション”は私の勘違いでありませんでした。
 セッションというのは、セッションするというのではなくて、私たちの前に出演したグループの名前でした。残念。
  

 さて私、セッションの時のイメージ、準備してたんですよ。
 この夏、インド舞踊のラフールさん エピゾさんのライブの時のラウラウさんたちの汗が、きれいだなと思うくらい見事、すばらしいと思っていたので私もこの夜脱いでみました。だけど肌の色は白いし、身体付きはポチャポチャ。汗もかくことはかいたんだけどもう真夏の空気ではないんですね、思いと実際はずいぶん違いました。

 でも楽しいひとときでした。

 2011年の私の夏が終わりました