2011年9月14日水曜日
F 支えているようで支えられ 支えられているようで支えている [人」 Fさんと私
先日の太鼓仲間のFさんの 「今の調子では対等におつきあいできないから・・・ なにも与えることができないから・・・」「こんな 今の 私では恋人はできませんね…」
を聞いてから(読んでから)、どうにもこの発想が気になっていろいろ思い倦ねていました。
実際Fさんは気づいていないけど、私はFさんのおかげでこの間生き生きとしたというか、自分のやっていることに意味を見いだせたし、やりがい生き甲斐を感じていました。
Fさんの存在自体が、私のやっていることに意味を与えてくれたんです。
Fさんの思いこみ、発想に同意することはできません。
Fさんは持っていないからだめだと思い込んだわけですが、私は逆に持たないからこそ(本当に持っていないかは別問題)そこに私の存在余地を感じたんです。
だって彼女がすべてを持っていたら、余地なんかないし。必要ないですもの。 だから今回は私が補えた(補いあえた)んだと思いますよ。
実はFさんが“持たないことによって”私は多くのものを与えられていたのです。
(私のこういう発想については 5月28日の…晴眼…ブログを参考にしてください)
人と人の関係ってどういうものなんでしょうねぇ。
そのつながりで、表意文字としての「人」という字のことがどうにも頭から離れなくていろいろ思っていました。
人という字は一人の人が他の人に支えられているところを表した字だ という話はすでに知っている人も多いことと思います。(正確な字の成り立ちとしては別のようですが。)
改めて見てみましょう。確かに一人がもう一人を支えています。
何事もなければ胸を張って一人で立っているのも可能なのかもしれませんが、生きていればうつむく時だってあります。
「人」という字の人はずいぶんとうつむき傾いています。支え、つっかえ棒がなければ間違いなくバタッと倒れてしまうでしょう。
そんなことを思いながらもう一度よくみてみると、左側の大きい人、支えてもらっているからこそあんなに傾いていても倒れないでいられるのがよぉくわかります。
確かにそう、だけど今回気づいたのは、右側の小さい人の方のことなんです。大きい人・相手を支えるために、必死に自分の身を傾けてまで支えています。けれど、あそこまで自分の身を傾けていると相手がいなければ自分も倒れてしまう、
つまり 支えているようで支えられ 支えられているようで支えている と言うことになっているんです。
決して片側だけの一方的な関係に終わっていないということに気づいたんです。
深いなぁ
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