2012年2月27日月曜日

せめて  自分が頑張ればできることは  その場に立ちたい

 年頭にあたって今年の抱負、というわけじゃなくて今頃ですが。




 たとえば、Fさんとのことのように、相手のいることは自分(一人)の思いだけではどうにもならないけれど、せめて自分でやると決めたらできることはやりたいと考えています。



 今計画しているのは、さっそく明日出発する「ビキニデー」。

続いて、今年全国巡回する「ベン・シャーンの展覧会」が6月に福島県立美術館に回ってきたら。

8月には、前から気になっていた富山の「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」にいこうと計画を始めました。

 そのほかにも、久しぶりに土門拳写真美術館も雪が解け道の心配がなくなったら行きたいなぁ、と思っています。



 さっそく明日から3日間にわたってのビキニデー。

どの年のビキニデーも重要だけれども今年は一段とかもしれません。

3・11福島第1原発事故。 未だ続く争い、テロ。

せめぎあいが続きことは簡単ではないけれど、一段と強まる核兵器廃止しの動き。



 とにかく、可能な限り“その場”に立とうと考えています。

いじめ反対運動 「ピンクシャツデー」 に賛同します。

 いじめ反対運動 「ピンクシャツデー」 に賛同します。


 私は“ピンク”という言い方よりは、桃色という言い方のほうが好ましいんですが、似たような色合いでもほかに桜色とかローズとか、たくさんの言い方があります。
 
 つまり“様々”ということ。

 このこと一つとっても 「自分以外にも様々な人がいて互いに尊重しあいましょう」 ということにつながるでしょうか。




 本来、ピンクシャツデーは2月の最終水曜日。
 今年の場合は2月29日なんですが、私が明日からビキニデーの集会。久保山愛吉さんの墓前祭などに参加するため家を留守にするんで、今日私の意思表示だけ先にしておきます。

2012年2月26日日曜日

1-15-46 えーッ いいんですか! と言ってしまったほどの驚きと喜び「ベルのお土産」

 

 マゴソスクールで買ったものの中で特筆すべきは、たった今の演奏で使用されていた“ベル”を手に入れたこと。(ちなみに、ベルとはいってもボールベアリング・軸受の外周部分を廃物利用したものなんですけどね。)





 支援の一つとして品物を買うことは別として、今回の主目的はお土産を買うことではないけれど、ここアフリカ・ケニアで実際に使われている楽器をどれか買って帰りたいなぁと思っていました。

 



カヤンバ

 とはいえ、本物の太鼓は大きくて持って帰れないし、実際のところはカヤンバか何か、小物・パーカッション類かなぁと思っていました。




 それでオギラ先生に、さっき聞かせてもらった演奏で使っていたベルと同じものがほしいと頼んでみたのです。
 
 そしたら、同じようなのがすぐ見つからないかもしれないからあれ(さっき実際に使っていたもの)を譲る! というのです。

 えーッ いいんですか! と思わず言ってしまったほどの驚きと喜び。


 マゴソスクール支援活動のCDで耳にしていたベルの音は、ジェンべ演奏の際のベルよりもリズムはシンプルだけど、音としてはいい音を響かせているなぁと常々感じていました。

 今、いい音を響かせていたあのベル、私のところにあります。

Fさんの事、8月6日をキーワードに考えた 7の5    8月6日の夜から翌日

  今日新しく処方された薬の反応で口は激しく乾き吐き気も強くなる一方、ぐったりと具合が悪く、開演早々帰ってしまったFさんのことが気になりながらも一人残った私は、限られた時間で精いっぱい考えて決めたその気持ち・ボールを、キャッチボールのように彼女にパスできたことで肩の荷が下りた気持ちでした。

 彼女はそのボール・想いを、「嬉しい」と言ってキャッチしてくれたんだからちょっとした“空中浮遊”状態でしたよ、気持ちとしては。



 そしてラフールさんの公演を終え帰宅。 

 これからのおつきあいに、ちょっとの不安と大きな喜びを感じ高揚状態で横になりました。と言っても、気が高ぶってよく眠れませんでしたが。



 その頃、彼女も私とは別の意味でよく眠れなかったようです。  

 私が、気が高ぶって眠れずにいる同じとき、彼女はその不安な気持ちをEメールで発信していました。

 私がスローイングしたボールを体調の良くない状態でキャッチし、予期しない進展に 戸惑いながら、おそらくは一晩中。 日が変わってからも、朝を迎えるまでもたくさん考えていたんだと思います。


 まんじりともせず迎えた8月7日の朝、私は受信トレイにFさんからの2通のEメールを見つけました。

 一通は昨夜のうちに発信されたEメール。
 そこには、私の申し出を嬉しく思いながらも不安な想いがわいてきているということが書いてありました。

 二通目は7日朝に発信されたEメール。
そのEメールは、7月7日以来8月6日までの感じと雰囲気が違っていました。
 おそらく一晩中考えた気持ちを書き出したEメール。

 この8月7日朝に送信されたEメールの感じは急変。
 オセロゲームのようにパタパタパタと一気に裏がえった印象。

 時間の経過とともに変わる、彼女の想いが見えてくるEメール。
不安で そして 耐えられなくなり 逃げ出す、こんな気持ちにまでさせてしまった私は、たくさん考えたし良かれと思ってだとしてもなんてことをしてしまったのか。 


 あまりの急展開にどうしたらいいのかなすすべもなく無為に時間が過ぎていきます。



 そこへ来たもう一通のEメール。
 そこにあった私が最も嫌いな言葉 ~逃げる私を~ が目に飛び込んできました。心をずたずたにしてしまいました。
 激しく動揺し訳が分からなくなってしまいました。

2012年2月24日金曜日

映画「ルイーサ」を観て改めて解った“生きていくには同志が必要”

新潟国際映画祭で「ルイーサ」(アルゼンチン)を鑑賞してきました。

 この度は開催自体が危ぶまれるような状況を乗り越えての開催だったようです。
 そのせい(?)か、よそではなかなか観ることのかなわないキューバ作品が一本もありませんでした。上映される本数、期間等にも影響がでていたかな。
 そんなこともあって、これまでにもまして日程があわなくて、今年は一本で終わりかなぁ!?

 その一本とは「ルイーサ」

 絶えきれないとても辛いことがあって心を閉ざして、同じ毎日々々を繰り返す主人公ルイーサ。
 そんな生活に一石を投じたのは、突然に愛する夫と娘を亡くした後ただ一匹(一人)の愛猫が死んでしまった朝。
 それをきっかけとして立て続けに起こる不運の数々。
 その一つ一つ、ルイーサは逃れるすべもなく直面し混乱します。突然のなれない事に不安にもなります。
 
 だけどその姿、スクリーンの外から見ている私には、だんだん変わっていくルイーサを感じました。

 世間一般の通念では、生活に困りどんどん落ちていく というように見えるかもしれません。 でも彼女はとても生き生きとしてくるんです。生命力・行動力・活動的になってくるのです。
 気遣ってくれる人も含めて、いっさい人とのかかわり合いを拒否し、(大きい)声さえ出せなかったのが、口を開きしゃべられるようになるんです。人に頼みごとができるようになるんです。

 その変わりようは。つらい経験が消えてなくなるわけではないけれど、これからの彼女の生活はこれまでとは違ったものになるだろう事を確信させるものでした。

 映像としてルイーサの人となり(髪型)、内面おも映し出しているシーンがいくつもありました。

その中で印象に、よりのこったシーンを二つ。

 一つ目
 地下鉄通路で物乞いをしていた片足のない男性。その男性との縄張りを巡っての諍いから始まった、妙な協力関係。
 時には大きな声で言い争いを繰り返すなかで、心に重くたまっていた思いを吐き出させてくれるまでになる。
  その男性と、一目でたいしたお店じゃないとわかるホットドッグ屋。トッピング(?)はマヨネーズだけというお店でパンとソーセージ頼みます。飲み物は、手持ちのお金の関係で一杯のコーラを二人で分けて。
 だけどそこには(人間の)相手がいて笑いがありました。人間とつき合って人間として生き返ったルイーサがいました。

 笑い、話し、マヨネーズをたっぷりかけたホットドッグを食べる二人。
 すごく躍動感がありました。映像としてもすごくダイナミックな感じ。

 やっぱり“食欲は生命力”ですよ!

 話しかける対象の猫はいるけど、一人きりの食事とは全然違います。


 ふたつ目
 死んだ猫の埋葬費用は結局集まらずじまいだったけど、個人宅のゴミ消却用の電気炉を使うことを思いついたルイーサと仲間。

 その電気炉の電源スイッチを押したときに初めて泣いたルイーサ。

 初めて感情が表出しました。

 おそらく、過去のとても辛いこと。愛する夫とまだ幼い娘を同じ日、同時に事故で、突然失った時も泣かなかったんじゃないかな。いや泣けなかったんじゃないかな。

 これまで、仲間がさしのべる手を振り払うようにしてきたルイーサが初めて弱みを見せることができたシーンです。肩におかれた手を握り返すこともできるようにもなっていました。



 人生には同志が必要です。

 綺麗や、かっこいい“恋人”のような関係の相手だけではなく。

人間、生きていくには仲間、同志が必要なのです。

 そのことが改めてよくわかりました。



 ところで。

 絶えきれないほど辛いことが起こる。一つおかしくなると、次から次ぎへとおかしな事が起こる。
 そういうこと、私も覚えがあります。そして自分を守るためにルーティンだけの生活に自分を持っていく。そうなってしまうところもよくわかります。
 私自身の体験から言ってもよくわかります。
 決して苦しみがなくなる訳ではないけれど、いろいろ考えることを必要としない、苦しみに無感覚になれるんです。

ルーティーン通りに毎日をくり返すって、おもしろくも何ともないけど楽なんですよ。

2012年2月19日日曜日

1‐15‐45 私がマゴソで買ったもの/広いアフリカ、東と西の相違

 お土産としても必要だし、ここの品物を買うことで少しでも足しになればと思っていたので、シュシュやキルティング式のショルダーバッグ、製品になる前の布(カンガ)などを購入させてもらいました。

 今アジアン雑貨は日本のあちこちで目にするようになりましたけど、ここにしかないアフリカンな物、色柄のものをと思っていました。

 ですが、たまたま少ないタイミングだったのかもしれませんけど品数については少し拍子抜けの感あり。

 確かに、インドやタイあたりの柄とは違っているけど、今一つイメージしていたものとは違います。
 歌伴ということを考慮したとしても先ほどの音楽、服装とそこからくる雰囲気、人々の顔立ちなど、ここアフリカ東部はアジア、特にインド(イギリス)との関係が想像以上に強い結果なんでしょう。

 そういうことでいくと、映画・音楽、広くアートなどで出来上がった私のイメージの“アフリカ”はやはりアフリカ西部でなければ期待どおりというわけにはいかないのかもしれません。

PTSD 2題その1  PTSD に効くこと  (F)

“3・11”の後、支援に行った人のスクリーニング調査が行われました。
四六時中 交代で支援活動にあたったのでこうして雑魚寝をしていました
程度の違いはあっても、あまりの被害 多くの被災した人たちに、ショックも受けたし、自分を無力だと感じたとおもいます。
支援活動中は緊張もし肉体的にも厳しい状態なのに十分な休養も取れない状態でした。
支援活動から帰ってきた後も、被災した人たちに比べれば とがんばりすぎてしまうことがありました。
そうでなくとも、あれだけ繰り返し津波の押し寄せる情景をテレビで見せつけられたらおかしくもなるというもの。


私が宮城県の塩釜に入ったときはまだ地震から間もなてく結構大きい余震が頻繁に起きて建物が地震で揺れきしむたびに怖かい思いをしました。テレビ報道で目にした押し寄せてくる津波 地震で壊滅した街並み 原発の映像がなんども思いうかびました。

原発事故・事件については、宮城・塩釜から帰る時に避難させた子どもたちが福島県の東北自動車道郡山ジャンクションが近づいたとき「お母さんに言われたから」と濡れたハンカチを挟んでマスクをしたことで一層強く記憶にのこっています。

で、PTSD的には今もなくなったわけでも解決したわけでもないけど(復旧復興の遅れは責任もの!)私の場合その後に、ブログに書く  集まりで報告するために、体験してきたことを整理 まとめることが気持ちの上で多分によかったようです。



そしてこのたびのFさんのおかげでもっと気づいたことがありました。

Fさんとのことは、始まったかと思ったとたんの終わりがあまりに早すぎておつきあいしていることを太鼓仲間にオープンにする間もなくて、正直何が起こったのか受け入れられないままに自分の中に封じ込めていました。
知ってほしい、相談に乗ってもらいたいと思ったけどいまさら何を相談するの!というタイミングでした。

このことはもどかしく思いながらも、相手のあることだから私の方だけがいくら願ってもかなわないことだと思うようにしています。
でもFさんには「この“題材”があればこの後もずっと生きていける」と感謝しますよ。

この冬、室内温度が4度5度(今年はこれまでで最高の2度が一日ありました)では人も呼べないから、留守でも安全なエアーコンディショナーを設置しようかと教会の知り合いに相談しました。
前からの知り合いで、これまでも私のことを気遣ってくれていた人でもあるので一通りの打ち合わせの後お互いの近況の話になりました。
そしたら私はストップしてしまったけど、現在進行形でおつきあいしている話が出てきて。お互い10代20代じゃないから日本の感覚でいうと珍しいのかもしれないけど素晴らしいことだと大いに話が盛り上がりました。

そのあと気づいたんです。 すごく楽になった自分に。
想いや願いがすべてなくなった、マヒしたわけでもないんだけど、なんだか一区切りついたようで。
3・11のことに対してしてきたことによって(いくらかでも)楽になる感覚もありました。

整理する書き出す(吐き出す)そして話す・聞いてもらうという行為はほんとに大切なことだと改めて感じました。

ひと他人に話す。内にためておくのではなく 排出する まとめる 整理することによって すっきりしてくる 楽になってくる。
消えたり忘れるわけではないけれど“楽になる”共存できるようになる、現実 この状態を受け入れるきっかけになりました

尊重されるのは権利であり、尊重するのは義務です

もっともっと語彙豊かにと願い、そうなるように常々“読み 聴いて”います。


だからいつかは思いが十分伝わる言葉を獲得できる!と祈念しています。大げさ?

 相変わらず前置きが長くなったけど、今日というか一言言っておきたい。意思表示しておきたいことがあって。



 それは先の大阪市長選で新しく市長になった橋本徹氏の“思想調査”についてです。

こんなことはするべきではありません。

 大阪府知事の職を任期途中で放り出した理由も、私には納得できる説明ではありませんでした。

 制度としてはその結果を受け入れなければならないことはわかるけど、これまでの言動からなんで当選(投票)するかなぁ



 もちろんさまざまな考え方があり、人がどのように考えるかは自由。尊重されるべきです。

 けれど同時にほかの人が様々に考えるのも尊重しなければいけないと思います。

 平和 平安を含めて、すべての大前提として、自分が尊重されると同じように自分以外の人・考え方も尊重しなければなりません。

 相手がほんとに嫌がっていることは強制すべきではありません。



 人から尊重されるのは権利であり、尊重するのは義務です。

1‐15‐44 ボタンなどを少しも無駄にすることなく再利用

 作業場をのぞいてみました。

 出入り口脇の棚に各種のボタンが(ガラス)瓶に分類ストックされています。

 ファスナーやボタンなど少しも無駄にすることなく再利用されていることがよくわかります。

 ミシンは足踏み式。今日は男性と女性の二人だけだけど、ミシンの台数からいうとリリアンさんも含めて他のメンバーもいる様子。

 作業場の壁面とその下の長テーブルには、キルティングが施されたクッション機能のあるトート式のバッグ、シュシュや鮮やかな色柄の布製の肩掛け式のショルダーなどが並べられています。

2012年2月18日土曜日

映画「JAZZ爺MENメン」を観ていて思い出した ピカに命を奪われた娘さん の話

 映画は日本海側の地方都市が街興しのためにJazzのビックバンドを結成するところから始まります。

 メンバーがそろっていく過程、集まったメンバーの(背景)紹介、メンバー同士の軋轢…。このあたりの展開は常套なパターン。

 そのメンバーの一人の奥さんが余命半年の末期ガンと判明。

 クリスマスに予定されているバンドお披露目公演に間に合うかどうかという深刻な病状。



 悪化する症状に苦しみながらも当日を迎え、外出許可をもらって会場に来た彼女は演奏中に息絶える。
 私のために夫が演奏するのを見届ける一心でこの日まで生きていたんだと思う。

 作品は、俳優の演技も演出も映画全体の出来もまだまだと思いました。
 個人的にはこういうストーリー展開好きですけどね。



 この映画を観ながら、昔聴いた(読んだ)広島の話を思い出しました。

 広島のピカ(原爆)に被爆し瀕死の状態の娘をおぶい必死に峠を越え病院に向かう父親。
「死んだらだめだぞ」と声をかけながら。
 おぶわれた娘は父のその声に必死に答えるがどうにもこらえきれなくなったのか
「もうええか?」と父に聴く。
 はッとした父は娘をおぶったまま足を止め、覚悟して顔を背中の娘の方に向け声をかける。
「ええぞ」

 そう言ってもらった背中の娘は息を引き取り安らいだ。


 こんな話を思い出しました。

命を大切にする人間に




      

      ミクシ(フィンランド語) = どうして?(日本語)

   

  アイヌ ネノアン アイヌ(アイヌ言葉)= 人間らしい人間になる (大和言葉)

      命(           ぬち)どぅ宝沖縄言葉 命こそ宝(大和言葉)

2012年2月14日火曜日

母親がいなくなって初めてのバレンタイン・デー (T)

 214日、バレンタイン・デー。「今日は女性の方から告白しても良い日だよ」とストーリーを誕生させ、そこにチョコを結びつけたお菓子会社・チョコレート会社の人は大したものです。(不二家という会社の人と聞いたことがあります)
 罪作りなことを考え出したなぁとも思うけれど。

 

私自身は取り立てて反対も支持もしない立場。
 とは言っても気にならないと言ったら嘘になります。世間一般、周りが皆この話題になるしばらくなのですから。

  
 女性の側もいろいろ大変だけれど、男性は皆悲喜交々。
 彼女からの本命チョコはもちろん。例えば中学・高校で義理チョコももらえないなんていう男性でも、ありがたいことに母親からの一つが。やっぱり親・母親ですよねぇ。母親から見ればいくつになっても男の子だし、母親と息子はひとつ超越して特別ですから。

 ところで、母親のいない人はどうなるのでしょうか。
(実際のところは最後の数年は認知症が進んで本人はそこまで思いが回りませんでしたが)私は、今年から母親のいない男性・男の子なので。

そんな今年の私ですが、サックスのレッスンで一緒の女性からスペインのお土産をもらいました。
 わざわざ 言わなければわからないのにこの私のことを覚えていてくれて。これは格別にうれしいチョコになりました。

  

追伸 
ちなみにTとは20年ほどの縁でしたが、その間ただの一度もバレンタイン・デーの
チョコ(プレゼント)をもらったことがありませんでした。
 そう言うのに興味のないタイプの人っていますからね。ちょうど彼女はそういうタイプ
 だったというわけです。

世の中、手帳が記念日でいっぱいの女性だけではないということです。

2012年2月12日日曜日

1-15-43 スタッフが食べていたお昼

 布製の小物を作っている人たちが食べているものを目にすることができました。

深皿に盛られた、イメージとしては新ジャガの時期にだけ目にできる親指の爪くらいの大きさの丸いものを食べていました。

何かの小芋でしょうか、豆類でしょうか。

色合いは黄色みを帯びたクリーム色。炒め煮をしたのかもしれません、調理に油を使った時のテカリがありました。

 一口食べさせてもらいたかったけどそこまでは言えませんでした。

1-15-42 リリアンさん

 私たちは部屋中央の長テーブルを寄せてクロスをかけたテーブルで食べました。
リリアンさんはNさんと話をしながら、(どうも旧交を温めてというよりは打ち合わせ的な感じだったけれど)私たちは3人で話しながら美味しい食事を口にしました。

実際のところ相当なごちそうだったと思います。子どもたちや他のスタッフとは相当違っていました。



リリアンさんは、これまで講演会などで度々(話で)紹介され、キベラ放送局?で映像も見ていた、ある意味会いたかった人。

だからミーハーかもしれないけれど、念願かなってというところ。



月並みだけれど。

今目の前にいる、物静かな見た目もスレンダー・細身な女性のどこに、子どもをあずかろうと決断・行動を起こさせ、途切れる事無く続けて来る力・持続力があるのか思うと、これまで以上の好印象。敬服します。



情熱はもちろん大事。これなくして事は始まらない、と思うけど。

やめない・あきらめないということが必要不可欠な事、資質だと再認識しました。



そんなこんなでしたので、リリアンさんとはもう少し会話というかやりとりできたらなぁと思いました。

けど、そうしたらお昼どころでなくなったでしょうね。

2012年2月11日土曜日

高橋竹山 戦争反対の肉声


私の三味線を聴いてくれる人がいて、三味線で身を立てていられるのは、平和な時代だということ。

私ら障害者は戦争中はごくつぶし、と差別された。

戦争の時代だけは絶対にだめだ。



   初代 高橋竹山  津軽三味線奏者

F これが自然になって 何も感じなくなって 何もなくなっていくんでしょうね


節分も過ぎ立春なのにこのすごい雪。

 通勤の大変さはもちろんのこと、駐車場から車を出すだけでも一苦労。先日は地吹雪と路面凍結で普段なら一時間かからないところを2時間半もかかる始末。

 車はみんなノロノロ。でも危なくて抜くわけにもいかない、疲れました。職場と家が近い、歩いても行ける人にはわからない苦労でしょうね。

 そんなことを思い起こしていてはッと気づきました。



 少し前だったら、これほど印象的なことがあったんですもの、今日こんなことを見たよ聞いたよ思ったよ、とFさんに話し(Eメール)ただろうに、そうすることもなくなったなぁと。

どうしても伝えなければならないような用事もないし。

 

まあこんなものなんでしょうね。

だんだんこうなっていって、何にもなくなっていくんでしょうね。

これが自然になって、何も感じなくなっていくんでしょうね。



 子どもはお母さん(お父さん)が好きだからお話をしたいんです。だから用事のない時でも、ただお話をしたいんです聞いてもらいたいんです。

小さい子供が今日あったことをお母さんにうれしそうに話すような関係(状態)はやっぱり貴重だったんですよ。



 平穏と言えば平穏 乱れることもないけど、ドキドキしないし面白みないなぁ。

2012年2月7日火曜日

原発にも3・11にも負けていないフラガールの晴れやかな表情


例年ならお正月、松の内に何度か劇場に足を運んでいたのに、今年は一月も月末になつてやっと劇場に出かけました。ここ何年も続けていた毎月一回以上大きいスクリーンで映画を観るというのが途切れるかとはらはらしましたが。



今年最初の一本は「明日のパスタはアルデンテ」。

 この作品。イタリア、それも南部を舞台にした作品なのに同様の背景の作品とは少し趣が異なっていました。

 パンフを見たらトルコ出身の監督とのこと。たぶんに影響があったんでしょうね。

 悪くはないんだけどあえておすすめというほどでもないかな。

 

 この一本目を観た後はすぐ2本目を観ることができました。まるで大記録目前の足踏みからやっと解放されたかのように。

大げさだけど。



次に観た映画は「がんばっぺ フラガール」

 311で大きな被害を受けた福島県いわき市にあるスパ・リゾート・ハワイアンズ、そしてそこに関わる人たちのことを追ったドキュメンタリー作品です。

 施設が受けた甚大な被害。それでもホテル棟を使って受け入れた地震と津波の被災者。復旧に向けての努力。その間のフラガールたちの生活。

地震・津波の被害はこんなにひどかったのか、原発はこんなに身近なところに立地していたのか・・・

 その後の復旧・復興の遅々として進まないことを考えると“原発さえなければ”と強く思います。

この作品は、観て楽しいという作品ではありませんが、どんな被害を受けてどう立ち上がってきたのかをあらゆる立場・視点・手段で記録していく位置づけには充分なっていたと思います。



 自分たちの踊りを披露する場を奪い去られた彼女たちが、それでもへこたれず練習を再会、全国キャラバンに出かけて行きます。

そうして仮とはいえ、再び舞台の上にたったときの晴れやかな表情。こみ上げる想い。  

私も舞台の経験があるからよぉくわかります。私もともに涙しました。

2012年2月5日日曜日

Fさんの事、8月6日をキーワードに考えた 7の4  Fさんが弱さを受け入れた自然な私にしてくれました

8月6日夜。
5月のエピゾさんのコンサートの前座の前座出演の日に具合悪そうにしているところを見て以来、Eメールをやりとりするようになって以来初めて会います。



「私はさびしがり屋なので電話がもらえたらうれしい」とまで言ってきていたのに結局電話をしませんでした。

実際に会うことも 電話をすることも、何か怖くて。 

「辛い毎日だったんです」という経験があと一歩踏み出すことを躊躇させたのです。 



Fさんのことは太鼓の集まりで前から知ってはいたけど、特別にひたしく話しをしていたわけでもありませんでした。

ただ、服装 色使い 言動 に他の人との異質性。どこか突出しているんだけど、同時に私との共通する処、同質性を感じていました。

 それ以上の関係に進むなんては思ってもみませんでしたけど



幾度も幾度もEメールをやりとりする中で私だって 会いたい 会って話したい と思うように変わってきました。

だけど、辛い経験が、一歩踏み出した関係で生身の女性に実際に会う、実際に電話で話すということを恐れさせていたのです。

本当は会いたいし話したいのに、会った時にちゃんと話せるだろうかが、心配で怖くて自信がなくて不安な気持ちだったのです。

まだまだ気力がたりなかったんだと思います。



そんな気力、不安な状態でも少しずつエネルギーがたまってきていたんですね。 



Fさんは何でも話してくれました。誰にでも話す、むやみやたらと話すことでない事柄 お付き合いしている人がいないこと いたらいいと思っていること 子どものこと・・・

具体的な事柄を話してくれたので動けたんだと思います。



でも一番は

“何でも話してくれた”ということ自体ですね。

私が話すことをまず一度受け入れてくれた まるまる受け入れてくれた。

とにかく一度私の全てを受け入れてくれた。私の話をもっと聞こうとしてくれたことですね。



8月6日夜。

Fさんの前に一番自然な自分がいました。

“強い”私ではないけれど、弱さを受け入れた自然な私がいました。

Fさんが ストレートに オープンで いてくれるから、接してくれたからそうなれたんだと思いました。



正直、Eメールを幾度となくやり取りする半ばからFさんのことを思わない日は一日足りとてなくなりました。

その思いは8月6日以降一層強いものになりました。



Fさんのおかげで、弱さを受け入れ(一番)自然でいられる私になれたのです。

Fさんは、私に 気力を注いでくれました。

Fさんは、私に新たな一歩を踏み出させてくれたのです。

黛まどかさんに聴く サンジャックへの道・黄色い道しるべ

 雪道の渋滞を覚悟で映画館に向かう車中、たまたま合わせたチャンネルでサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の話題が流れてきました。
どこかいい音楽でも流してないかなぁとあちこち合わせていた時たまたま耳に入ってきたのです。語り口穏やかな、だけど動じない雰囲気の女性の話でした。映画「サンジャックへの道」のいい印象もあるもんだからそのまま聞くことにしました。

聴くうちにこの女性、黛まどかさんということがわかりました。

私自信は俳句を詠むわけではありませんけど、折々にまどかさんのことは見聞きしていました。

俳句にとどまらず日本の文化全体についての深い造詣と人間に対する真摯な姿勢、平和・平安に対する想いに共感を覚えていました。



黛さん、正確なところは私が知らなかっただけ!なんですが、一年間日本文化の理解を深めてもらうための日本の取り組みの特使としてパリで暮らしていたんだそうです。

もちろん俳人として俳句を通じてということになるんでしょうが、本人にとっても異文化の中、パリに暮らす ということだけでも多く得るものがあったようです。私自身の経験からもその想い共感します。



黛まどかさん自身のいろんなエピソードも好ましく聴かせてもらいましたけど、中でも印象に強かったのはサンチャゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の話し。

黛さん自身の話と共に、巡礼に同行した人たちそれぞれのことも話に出ました。

サンチャゴに着いたとき、意外なほど感極まった感情は湧いてこなかった。着くことが一番の目的ではなくてこれまでの巡礼の道中にこそ意味があったんだということに気づいたということ。

道中常に進むべき道を示してくれた「黄色い道しるべがこの先なくて私はどうやって歩いていったらいいの」と泣く女性に「神がきっと道を示してくれる」と声をかける同行者のエピソードが心に残っています。

進むべき道が、道しるべが途切れてしまった時の不安で心細い気持ち。この女性の気持ち、よぉく分かります。

黄色でなくてもなに色でもいいから“道しるべ”があったらどんなにありがたいことか・・・





雪道の帰り道、何度かヒヤヒヤしながらいつもより時間をかけて帰ってからもちろん観ましたよ「サンジャックへの道」。

しばらくぶりでしたが、今回見ても痛快なヤッターッと思わず手を打つシーン。前は気づかなかったシーン、前よりも理解が深まったシーンがたくさんありました。

見応えあるわ。

考えてみるとこの映画の監督のコリーヌ・セローさんの作品結構観てるなぁ。

突出制 と 類似制   (Fさんと私の)

 良く言えば 街にとけ込んでいる とも言えるのでしょうけど・・・・
信号にかかったとき、ハンドルに手をかけながら何とはなしに街ゆく人(服装)を見ていると 色がない!と感じてしまいます。

ベージュやグレイ、たまに他の色もあるけど、圧倒的に黒の装いの人が 多いんです

 色合い 生地 織り 染め デザイン 柄 、のっぺりと一色ではないけれどいずれも彩度が低いんです。色使いにあまりにも個性がないし、安易な選択としか見えません。



確かに多数だから安心、その意味では落ち着くだろうし間違いはないんだろうけど。

これでは、簡単で楽だけど、出かける前から、準備をしている時から「何を着ていこうか」と考える楽しみを感じることがないでしょうねぇ。 

 

私自身も必要に応じて。例えば舞台の黒子の時などに黒を。白は(ホ)ワイ(ト)シャツとしてたくさん着させてもらっています。

だから全てを否定するわけではありません。

でも基本的に“黒”と“白”は、例えば緑色とかオレンジ色とは違って、色ではないと思っています。「色」という字もついてないし、あくまでも黒であり白なんです。 

もっとを着てほしいと思いますねぇ。





Fさんのコーディネートはその弁で行くと自分がありますね。

明らかにFさんであって他の人とは違っています。 だけど他の人と違っているという事では私と似てるんです。

 周りの多数からは 突出しているけど私とは類似している ところを感じるのです。


その時は、後の展開なぞは思ってもみませんでしたが。