2012年2月19日日曜日

PTSD 2題その1  PTSD に効くこと  (F)

“3・11”の後、支援に行った人のスクリーニング調査が行われました。
四六時中 交代で支援活動にあたったのでこうして雑魚寝をしていました
程度の違いはあっても、あまりの被害 多くの被災した人たちに、ショックも受けたし、自分を無力だと感じたとおもいます。
支援活動中は緊張もし肉体的にも厳しい状態なのに十分な休養も取れない状態でした。
支援活動から帰ってきた後も、被災した人たちに比べれば とがんばりすぎてしまうことがありました。
そうでなくとも、あれだけ繰り返し津波の押し寄せる情景をテレビで見せつけられたらおかしくもなるというもの。


私が宮城県の塩釜に入ったときはまだ地震から間もなてく結構大きい余震が頻繁に起きて建物が地震で揺れきしむたびに怖かい思いをしました。テレビ報道で目にした押し寄せてくる津波 地震で壊滅した街並み 原発の映像がなんども思いうかびました。

原発事故・事件については、宮城・塩釜から帰る時に避難させた子どもたちが福島県の東北自動車道郡山ジャンクションが近づいたとき「お母さんに言われたから」と濡れたハンカチを挟んでマスクをしたことで一層強く記憶にのこっています。

で、PTSD的には今もなくなったわけでも解決したわけでもないけど(復旧復興の遅れは責任もの!)私の場合その後に、ブログに書く  集まりで報告するために、体験してきたことを整理 まとめることが気持ちの上で多分によかったようです。



そしてこのたびのFさんのおかげでもっと気づいたことがありました。

Fさんとのことは、始まったかと思ったとたんの終わりがあまりに早すぎておつきあいしていることを太鼓仲間にオープンにする間もなくて、正直何が起こったのか受け入れられないままに自分の中に封じ込めていました。
知ってほしい、相談に乗ってもらいたいと思ったけどいまさら何を相談するの!というタイミングでした。

このことはもどかしく思いながらも、相手のあることだから私の方だけがいくら願ってもかなわないことだと思うようにしています。
でもFさんには「この“題材”があればこの後もずっと生きていける」と感謝しますよ。

この冬、室内温度が4度5度(今年はこれまでで最高の2度が一日ありました)では人も呼べないから、留守でも安全なエアーコンディショナーを設置しようかと教会の知り合いに相談しました。
前からの知り合いで、これまでも私のことを気遣ってくれていた人でもあるので一通りの打ち合わせの後お互いの近況の話になりました。
そしたら私はストップしてしまったけど、現在進行形でおつきあいしている話が出てきて。お互い10代20代じゃないから日本の感覚でいうと珍しいのかもしれないけど素晴らしいことだと大いに話が盛り上がりました。

そのあと気づいたんです。 すごく楽になった自分に。
想いや願いがすべてなくなった、マヒしたわけでもないんだけど、なんだか一区切りついたようで。
3・11のことに対してしてきたことによって(いくらかでも)楽になる感覚もありました。

整理する書き出す(吐き出す)そして話す・聞いてもらうという行為はほんとに大切なことだと改めて感じました。

ひと他人に話す。内にためておくのではなく 排出する まとめる 整理することによって すっきりしてくる 楽になってくる。
消えたり忘れるわけではないけれど“楽になる”共存できるようになる、現実 この状態を受け入れるきっかけになりました

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