2012年2月24日金曜日

映画「ルイーサ」を観て改めて解った“生きていくには同志が必要”

新潟国際映画祭で「ルイーサ」(アルゼンチン)を鑑賞してきました。

 この度は開催自体が危ぶまれるような状況を乗り越えての開催だったようです。
 そのせい(?)か、よそではなかなか観ることのかなわないキューバ作品が一本もありませんでした。上映される本数、期間等にも影響がでていたかな。
 そんなこともあって、これまでにもまして日程があわなくて、今年は一本で終わりかなぁ!?

 その一本とは「ルイーサ」

 絶えきれないとても辛いことがあって心を閉ざして、同じ毎日々々を繰り返す主人公ルイーサ。
 そんな生活に一石を投じたのは、突然に愛する夫と娘を亡くした後ただ一匹(一人)の愛猫が死んでしまった朝。
 それをきっかけとして立て続けに起こる不運の数々。
 その一つ一つ、ルイーサは逃れるすべもなく直面し混乱します。突然のなれない事に不安にもなります。
 
 だけどその姿、スクリーンの外から見ている私には、だんだん変わっていくルイーサを感じました。

 世間一般の通念では、生活に困りどんどん落ちていく というように見えるかもしれません。 でも彼女はとても生き生きとしてくるんです。生命力・行動力・活動的になってくるのです。
 気遣ってくれる人も含めて、いっさい人とのかかわり合いを拒否し、(大きい)声さえ出せなかったのが、口を開きしゃべられるようになるんです。人に頼みごとができるようになるんです。

 その変わりようは。つらい経験が消えてなくなるわけではないけれど、これからの彼女の生活はこれまでとは違ったものになるだろう事を確信させるものでした。

 映像としてルイーサの人となり(髪型)、内面おも映し出しているシーンがいくつもありました。

その中で印象に、よりのこったシーンを二つ。

 一つ目
 地下鉄通路で物乞いをしていた片足のない男性。その男性との縄張りを巡っての諍いから始まった、妙な協力関係。
 時には大きな声で言い争いを繰り返すなかで、心に重くたまっていた思いを吐き出させてくれるまでになる。
  その男性と、一目でたいしたお店じゃないとわかるホットドッグ屋。トッピング(?)はマヨネーズだけというお店でパンとソーセージ頼みます。飲み物は、手持ちのお金の関係で一杯のコーラを二人で分けて。
 だけどそこには(人間の)相手がいて笑いがありました。人間とつき合って人間として生き返ったルイーサがいました。

 笑い、話し、マヨネーズをたっぷりかけたホットドッグを食べる二人。
 すごく躍動感がありました。映像としてもすごくダイナミックな感じ。

 やっぱり“食欲は生命力”ですよ!

 話しかける対象の猫はいるけど、一人きりの食事とは全然違います。


 ふたつ目
 死んだ猫の埋葬費用は結局集まらずじまいだったけど、個人宅のゴミ消却用の電気炉を使うことを思いついたルイーサと仲間。

 その電気炉の電源スイッチを押したときに初めて泣いたルイーサ。

 初めて感情が表出しました。

 おそらく、過去のとても辛いこと。愛する夫とまだ幼い娘を同じ日、同時に事故で、突然失った時も泣かなかったんじゃないかな。いや泣けなかったんじゃないかな。

 これまで、仲間がさしのべる手を振り払うようにしてきたルイーサが初めて弱みを見せることができたシーンです。肩におかれた手を握り返すこともできるようにもなっていました。



 人生には同志が必要です。

 綺麗や、かっこいい“恋人”のような関係の相手だけではなく。

人間、生きていくには仲間、同志が必要なのです。

 そのことが改めてよくわかりました。



 ところで。

 絶えきれないほど辛いことが起こる。一つおかしくなると、次から次ぎへとおかしな事が起こる。
 そういうこと、私も覚えがあります。そして自分を守るためにルーティンだけの生活に自分を持っていく。そうなってしまうところもよくわかります。
 私自身の体験から言ってもよくわかります。
 決して苦しみがなくなる訳ではないけれど、いろいろ考えることを必要としない、苦しみに無感覚になれるんです。

ルーティーン通りに毎日をくり返すって、おもしろくも何ともないけど楽なんですよ。

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