じつは、先日のアジア映画祭(長岡市)の会場になったリリックホールで入手したチラシの中に、現在は広域合併で長岡市の一部になってしまった旧中之島町の文化センターで行われる映画祭のチラシも入っていました。
そのチラシになんと、先日引用した高峰秀子のでている「張込み」が上映されることが記されていたのです。
これが縁というか巡り合わせなのでしょうか。
体調を崩してから何年もかかってやっとつかんできた生活リズムを、この日 この週は崩してしまうことになってしまうけどエイヤッ。覚悟の上出かけました。
出演している人たちの主だった人はすでにこの世にはいなく、フイルムも白黒、東京から九州・佐賀間が蒸気機関車で3日もかかる時代を背景にした作品。
エアコンはもちろんクーラーもない時代、九州へ向かう列車の中でも、張り込みをする旅館の中でもその“暑さ”が話しにいっそうの厚みをもたせ、観ている私たちをもその場にたたせます。
生き甲斐のない、生気の感じられない日常、秘めた情熱、その変わりようについては先日ふれたとおりなのですが、今回観ていて感じたのは、これまたびっくり。
張り込みを続ける中で刑事の一人が、十年一日、生気の感じられない判で押したような生活。そんな生活でも失えば取り戻すことのできない“幸せ”に、15分後にでるバスに乗れば何事もなかったように戻れると告げるシーンなのです。
高峰秀子ふんする女性は泣き崩れています。顔は見えません。その背に向かってそう語りかけるのです。
でも今回びっくりしたのは“この女性はこれまで見られていたことを全く知らなかった”ということ。
つまり 誰に いつ 何処で どのように見られ どう思われていたか ということは 本当にわからないことなんだなぁということ、気づかないものなんだなぁということ。
(フィクションである映画でのことのはずなんだけれど、それに留まらない印象を残しました。)
つい最近私にもそんなことがいくつも続いたものだから人事じゃないし びっくりしました。
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