2012年3月29日木曜日

スピーチの文化

 突然ですが。


 2011年最後の映画は「ニューイヤーズ・イブ」でした。
 一年最後の映画だし何か書き留めておきたいと思ったのですがどうにも これ!というものが思い浮かびませんでした。ダメな作品ではないんですけどね。
 ただ「アメリカは演説・スピーチの国だなぁ」ということは感じました。

 昨夜テレパソで作業しながらDVDで映画を再生していました。 画面もワイドだし性能もよくなったので作業と同時に視聴したのです。

 映画は、思考の邪魔にならない軽いもの、楽しくてハッピーになるものと思って久しぶりに「キューティ・ブロンド」を観ました。

 主演は、懐かしいゴールディ・ホーンに通じるリース・ウイザースプーン。彼女はきっとハリウッド、アメリカ(合衆国)の好みの顔立ちなんでしょうね。個人的にはわき役の方にタイプの人がいましたけど。
 久しぶりだったけど、へこたれない主人公、前向きで痛快な展開を楽しみました。そんなこんなでついつい続編まで観てしまいました。

 その時につながったんです。

 「キューティ・ブロンドⅠ」の方はハーバード卒業生代表として、「 Ⅱ」の方はアメリカ議会議場での演説・スピーチが映画の〆としてもすごく感銘深く扱われていました。
 劇中「スミス都へ行く」がバックに流れるシーンもあり、意識して“スピーチ”が扱われていたことが感じられます。
 「ニューイヤーズ・イブ」の方も、台の上からスピーチ 心情を吐露するシーンが山場になっていましたし。

 日本とは異なる“スピーチの文化”なんだなぁということを改めて感じたしだいです。

2012年3月27日火曜日

ゴスペル&ボーカル合同発表会 無事、それも楽しく終了することができました

  歌自体は前々からとはいえ、こちらの教室は昨年の11月から。それも月2回のクラスで、もう発表会参加とは。

 台詞覚えのやり方で歌詞を。テキスト付属の音源を繰り返し聞きました。それでも、みんなそろっての合わせはないし、ドッキリしたのは声が伸びないこと。

 この春の異動の話が出て以来いろいろ大変。得るものが期待以上にあったビキニデーもありました。
 そんなこんなで、気づけば通勤の車中での声出しもこのところしていなかったなぁ。月2回のクラスというのも少ないような気がするけど、常日頃からの声出しがいかに大事かということを再認識しました。


 “発表会”は途中休憩をはさんで約3時間。常設の音響 照明設備の整った舞台。専任のスタッフ。何より講師陣うちそろっての生演奏。
 やっぱり“生”はいいわー。すごく歌いやすい。テンポもキーもボーカリストの方に合わせてくれるんですから。

 会場は和気あいあいとした雰囲気。
 出演者もみな習っているだけあってどうしようもないというレベルの人はいませんでした。バラツキはありましたけどね。
 私もゴスペルの仲間と楽しませてもらいました。声も限られた準備期間の割には伸びてたでしょうか。コーラスではないゴスペルの乗りがいくらかでもできたかなぁと感謝しています。
 綺麗だけではない、祈りと賛美の乗り 訛りが加わるとよりよくなるというのが感じられたゴスペルグループの歌でした。

 歌のレベルのばらつきについては、2010年10月に三国の人達の地域のお祭りをお手伝いした時に感じたことと同じことを再び感じました。
 新しいこと特別秀でたことでなくとも、自分が歌う時も仲間が歌う時も、聴きに来た人も、私も含めて会場にいるみんながとても温かく楽しい気持ちになりました。
 これはこれで有りなんですよ。

 打ち上げ。
翌日の仕事のことが気にはなったけど、せっかくの集まりだからと思って参加してたくさんの出会いがありました。
 出会いと縁は大切ですからね。大事にしなくちゃ。


 その後?
 ジャズを大音量で流しながら車をドライビングですよ。
 翌日は大きな解放感・達成感とともに映画館ですよ。(この日観た マリリンモンロー7日間の恋 については別項で)

 楽しまなくっちゃ!!

2012年3月20日火曜日

1-15-50  出産費用は2,000ケニアシリング

 この産婦人科診療所での出産費用は2,000ケニアシリングとのこと。


 ちなみにいま日本では約30万ですからずいぶんと安く感じますが、どうも1ケニアシリング=1.25円という交換レートから受ける私の印象と、実際ケニアで使う時の1ケニアシリングの価値は相当に乖離しているようです。
 同じ行為に対する対価ということで考えると150倍!?
 1ケニアシリングの実勢価値は150円くらいということ!?

 シリングの下のセントの単位も生きてました。実際ウチミで買い物した時のおつりで20セント硬貨をこの手にもらいました。

 いま日本では日常に円の下の銭とか毛を使うことありませんよね。



 この2,000ケニアシリングが払えずに、子どもを産んだ後黙っていなくなる人が年に何人かいるそうです。

 このことからも、やはり損得だけじゃない人だと確信します。

1-15-49  産科診療所 ミッションを感じているからやめないんでしょ!

歩き出してすぐ感じました。


説明もなかったしよくわからないけれど来た時の道と違うんです。

 道が格段に綺麗というわけではないけれど太さが違います。日差しもその分足元の方まで多く届くので周りが何か明るく。感じが違います。

 でもたった今マゴソの、来た時と同じゲートから出たばかりなのに!





 いきなり、コンクリートを打った場所に出ました。

 ここが訪問することになっていた医療機関(産婦人科診療所)のようです。



 中に入ると男女二人の職員が応対してくれました。

 院長は、忙しい人のようで今不在とのこと。


 受付の二人はこざっぱりした服装。気合というか、応対する雰囲気がはきはき メリハリがあります。そのせいか診療所全体の雰囲気もシャキッとした印象。

 ここキベラで寝起きしている住人ではないのかもしれません。



 二人とNガイドから説明を受けていたら、院長本人が突然!

 あいさつを交わしていたら、院長自ら診療所内を案内してくれることになりました。感謝



 何でも、ここに医療機関を立てるにあたっては「一軒も病院がなかったので儲かると思って」建てたとのこと。

 エピソードとしては面白いけれど、でもこの話どうでしょう。

 きっかけにはそういう要因もあったのかもしれないけれど、それだけだったらいまだにこうしてここに居るでしょうか。


 やっぱり、それだけでない何かミッションを感じているから続けているのでしょうね。

2012年3月19日月曜日

再稼働の了解は10㎞  事故の時の対策範囲は30㎞  話がおかしくない!?

生きていると人間の思慮だけでは理解のできない不思議なこともままあります。




 でもこのことは人のやっていることなのにどうにもわからない。どうにも不思議で理解できません。

 それは、東京電力福島第1原発事故の放射能汚染の広がりは “10㎞” という数字では収まらないのに「原発再稼働の了解を得ればいいのは原発周辺半径10㎞までの自治体でいい」 という考え方。

 広がりの形だって実際の広がり方は同心円状ではなく風向きや地形によって変形しているのに。



 

 そしてもっと理解を妨げているのが「原子力発電所の事故に備えて事前に対策をとる防災対策重点地域=EPZを、これまでの半径8~10㎞から半径30㎞に拡大する」とした(原子力安全委員会専門部会)ということ。

 防災対策重点地域は30㎞なのに、了解は10㎞まででいいの!?

 話・数字に整合性がないと思うんだけど。不思議ですよねぇ。

 責任のある 政府・原子力安全委員会・保安院 には正しい決断を強く望みます。

2012年3月18日日曜日

3・1 ビキニ   平和利用 という言葉で本質隠し


ビキニ水爆実験後起こった反原爆の動き。

原発マグロ 原水爆禁止運動 という言葉 運動もこのとき生まれました。

 時の アメリカ・日本両政府は財界を手先に巻き込んで 軍事利用に対して平和利用という言葉を持ち出しすり替えました。

「原子力は確かに原爆・人も殺す破壊するけれど、平和利用もできる。」
「原子力は資源のない日本にとって大変貴重な無限のエネルギー。(原爆だけでなく)発電所・発電にも使える。」と。

 アメリカ主導のもと政治的に、日本政府と財界が動いたのです。


 というように、経済的な事だけで原発があつかわれていないから、会社にこんなに損害を与えていてもやめないんだ やめられないんだと言うことでこのたびの一連の動きが腑に落ちました。

 ことはCIAの裏工作も含めて、安全第1ではなく政治的に“平和利用”という言葉の響きに惑わされていました。
大石又七さんの発言。
「ビキニ水爆被災事件の全容解明を目指す研究交流集会」での報告・発言で気づかされました。

 本質を見極めなければいけません。

  よく視ること!

  よく聴くこと!

3・1 ビキニ  崩れた “神話”

 このたびの東京電力 福島第1原発事故で“神話”が崩れました。



一つは「原発の発電コストは安い」というもの。

 これまでだって算定根拠に何を含めるかでは大きくずれがありました。
 使用済み核燃料の処理技術、廃棄物処理の技術はいまだ確立していないまま。
 なのにそのままでの原発稼働。各原子炉ごとにある、使用済み核燃料“一時保管”プールは次々と保管量の限界を迎えようとしています。
 最終処分場は未だ決まっていないのに。(どこだっていやですよ。引き受けたいなんてところはないと思いますよ。)
 
 それらのことを考えると、なにを根拠に安いというのか全く分かりません。

 原発事故がいまだ解決せず、保証問題(金)も未だ解決していません。
既存の原発の再稼働についての反対も一段と強くなっています。

 今でさえやれているんだから、節電に努め、今後一層省エネ技術が高まっていけば、この危険で高コストの原発に固執する必要はありませんよね。



 


 「安全神話」もみごとに崩れましたね。  

 私の記憶では、巻原発の時、“絶対” 安全と聞いた覚えは個人的にはありません。  

 ただ、東北電力、原発建設を推進している人たちの発言・広報は、小数点以下にいくつゼロを並べてだったでしょう。(これだけゼロが並ぶんだから)だから安全なんだと言っていました。
 
 いくらゼロがたくさん並んでも、確率が低くてもゼロじゃないんでしょ。
事故は起きるんでしょ、その時にどうするんですか!と聞いているのに話がかみ合いませんでした。

 まさに今回ですよね。

 いろいろ言われていたのに。
自分でわざと想定しないでおいてこのたび “想定外” とはよくも言ったり! ですよ。

3・1 ビキニ  素朴な疑問 2題



 3・11東京電力 福島第1原発事故以降、今回の3・1ビキニデーに参加する前から疑問に思っていたことがあります。


・ビキニ水爆実験で被曝した漁船の数を調べあげた幡多サークルがなぜ高知のサークルなのか。  



・3・11 東京電力 福島第1原発事故の後の怒りを覚えるほどの情報操作(隠し)。
これだけの資金をいまだ“収束”していない原発にかけるぶんでこれからのエネルギー開発をしたらどんどん進むだろうになぜしないのか、という素朴な疑問。

 利益を上げなければならない大企業・営利企業が、これだけ会社に損失を与えた(与え続けている)原発をなぜやめないのかという素朴な疑問。

不思議で不思議でなりませんでした。

3・1 ビキニ   野口邦和 閉会前の発言から



第8分科会 
 「ビキニ事件と原水爆禁止運動を学ぼう」


  野口邦和
     (日本大学専任講師、放射線防護学)

        閉会前の発言から



・~最優先の扱い、開発最優先になると、なにが起きてもすべての問題を超越して情報を隠す。


・水爆実験での犠牲者は誰だったのかをみてみると、フランスはムルロア環礁でやった。フランス人のところではやらなかった。支配民族は先住民のところでする。


・住民の移住は、個人の被害だけでなく地域・文化がなくなることでもある。


・他者に犠牲を押しつけて成り立っているようなものはなくさなくてはならない。

 移す ではなく なくす対象

3・1ビキニ  ジョセフ・ガーソンさん発言抜粋

ジョセフ・ガーソン

(アメリカフレンズ奉仕委員会・ニューイングランド事務所責任者)


発言抜粋

・「~“安全な核軍備”などあるのでしょうか~」

・(福島原発事故によって爆弾だけではなく)“核融合”と(が)人間は共存できないことがはっきりした。

・沖縄もグアムもハワイも海兵隊はいらないと言っている。



注  海兵隊
     アメリカ合衆国にある5軍 ・陸軍・海軍・空軍・沿岸警備隊・海兵隊の中で唯一本土防衛の
     任を持たない軍。
     つまり攻めていくこと自体が目的の軍隊、ということですね。





 私もこれまでの報道などで顔写真は目にしていましたけれど、原水禁運動においてはすごく縁のある人のよう。初日の国際フォーラムで多くの人と旧交を温めていました。

 昨年はビキニだけでなく夏の原水禁世界大会にも参加するほどたびたび来日している模様。

2012年3月13日火曜日

海外参加者  「われらグアム人」 リービン・タイダノ・カマチョ  カラ・フローレス・メイズ 発言抜粋

国際交流フォーラム「核兵器のない世界へ」‐アジア太平洋の反核平和運動の役割‐
2月28日12:30~ から

 グアム・沖縄・アメリカは皆つながっている。

 海兵隊が来るとグアムが繁栄するんだと言って受け入れを進めようとしている。
 だが建設工事を請けおうのはアメリカ本土の企業。富はアメリカに行ってしまう。











 第8分科会「ビキニ事件と原水爆禁止運動を学ぼう」
 2月29日16:00~ から

・普天間の海兵隊が移転してくると、島の30%がすでに基地になっているのに、その割合がもっと増えてしまう。
 道の上を砲弾が飛び、家の上を飛行機が飛ぶようになる。

・“普天間”言い続けていることは(私たちの)勝利だと思う。グアムも戦い続けていく。
 (生きていることがストレートにつながっていく「無人の野」のエピソードを思い出した。)

・マーシャル諸島グアムの人の平均寿命は65歳といわれている。だけどそこまで生きる人は少ない。
 アメリカ本土に比べると、たとえばある病気は1900%も多い。
 このせいか、放射能のせいかまだわかっていないが、戦後アメリカが森を焼き払ったときつかった爆弾や薬品も有害だったことがわかってきた。

・グアムの元々の住民は、戦前は80%を自給していたのに、戦後は10%に下がってしまった。
 水源、農地、島全体の三分の一を奪われている。

・島民はビキニのこと、核実験のことを知らされていなかった。(アメリカ・グアム両政府)
 ずっとここで暮らすことがいいんだとされていた。

・反軍隊ではなく、私たちの普通の生活を取り戻す行動だ と思っている。












“基地が来れば豊かになる若者の働く場もできる。”

→日本での基地誘致、原発建設の時と全く同じパターン。 

以下は私の考え
・だけど、だとしたら日本一基地の多い沖縄が日本で一番豊かなはずでしょ。

・日本人の人気リゾート地上位に入るグアム。その同じ島にアメリカ軍の基地があるという事を、どれだけの日本人観光客が認識しているだろうか。

・沖縄から海兵隊は出ていってもらいたい。
だけれど、グアムの人たちをこれ以上困らせてはいけない。
沖縄の海兵隊をグアムにやればいい、というだけのことではない。

Fさんの事、8月6日をキーワードに考えた 7の6

 

 
Fさんは自身で、“人との距離の取り方がうまくない”と言っていました。

 Fさんは、ある程度以上の関係でなければ口にしないことを何通ものメールで私に話してくれました。

 それを、 私が“かってに”組み合わせイメージを膨らませたのです。妄想ですね。

Fさんの言ったのは、それ以上でもそれ以下でもないそれだけの気持ちのことだったと考えるとつじつまが合います。

   …突然のことへの戸惑いにほんの少し慣れたころ整理してみると。




今更ですけど。
あのとき口にしなければ今でもEメールのやり取りをしていたのかなぁ、それとも遅かれ早かれだったのかなぁ。
考えるけどわかりません。 

でも、“縁があれば”と思えるようにはなってきたとはいえ、それ以上に積極的にはなれなかった私が、おかあさんにちゃんとあいさつできたというのは感謝ですね。

日数で言えばほんの2~3日ですが、私は8月6日に向けてたくさん考えた後で選択・決意・決断したものを口にしました。
6日の夜、彼女にとってみれば突然のことだから、びっくりもしたし不安にもなったでしょう。
それがスタートだったんですよ。おつきあいして話して考える。

翌日飛び込んできたメールは、彼女が一晩考え選択・決意・決断したもの。

それはいい。

でも、一方的に。それを最後に、私の気持ちを聞くこともなくいきなり連絡を遮断。
一切を断ち切られてしまった私はそれでいつまでも成仏できない状態に居続けることになってしまったのです。


 8月6日のEメールには 「~きちんと向き合える人が大事と思います~」 とありました。
まったく異論はありません。 わたしも大事なことと思います。



引き合わせるところまでは子どもがしてくれたけど、そのあとのことは二人の責任。
だからこそ二人一緒に不安なことを出して考えるということが必要だったんだと思うのです。
それができるかどうかが大事だったんじゃないかと思っています。
お互い、不安なり、考えることをだしあい話しあい、解決あるいは認める、解決しようと心を合わせることがこの時も後々も大事な必要なことだったと思うのです。

だけどFさんの方がその機会から、場から逃げ出してしまったのではないでしょうか。
この態度こそが、二人で一緒に考え不安に対していくということから逃げている、向き合わないということだと気づきました。 

いつまでも逃げていてはだめだと思います。
いつまでも逃げ切れるものではないと思います。
病気、考え方のパターンだと分かっていても。

彼女は求めていながら、それが現実のものになりかかると怖くなり逃げ出してしまうことをくりかえしているようにおもえます。

とはいえ。体調・病気のこともあるとは思うけど、いずれにしても時期が早かったんでしょう。

また いつものパターンやっちゃったかなぁ

 いつものパターンをやっちゃったかな。


 でもそれで人一人が元気になったのなら、自分に自信を持てるようになったのなら、新たな一歩を踏み出せたんだったら意味のあることをしたということになるのかな


 以前言葉の備忘録のラベルで、恋愛感情の生まれるときは“勘違いと思いこみ そして妄想”がそろったとき。それが勘違いだとか自分の勝手な思いこみだと気づかずに、というようなことを書きました。



 でも周り回ってようやく私の耳にも彼女の言動が入ってきました。
私以外への振る舞いも含めて。

 もちろん“病気がさせて”というのが大きいのだと今でも思いますけど、私の覚悟なんかではとても対うちできないレベルのことをあちこちでしていました。

 “人との距離のとりかたがわからない”まさにそれでした。
私だけに、私だから話してくれたと思っていたことが実はそうではありませんでした。
 距離のとりかたがわからないから特に親しくもなかった私にさえ、普通なら口にしないことを話してくれてたんです。

 今回知りえた言動は(私に関することだけではなくて)あの7月から8月のメールと余りに感じが違います。

 彼女の名誉のためにもと思って黙っていたのでびっくりだったようですが。
 彼女からのEメールを受け取り、私(と)のことを心配して声をかけてくれた人に、彼女は「話がかみ合わない」と言っていたそうです。
 合うわけありません。ぜんぜん返事がこない状態で、私が書いたものですもの。
会話・ やりとりをしていたわけではありませんでしたから。



 それより私がびっくりしたのは、彼女が私からのEメールを読んでいたということ。
電話が着信拒否設定なんだから、Eメールは当然迷惑メール設定だと思っていました。

 それにしても相変わらず、情報に疎いなあこの手の・・・

 ようやく夢から目が覚めました



 こうした経緯がわかった後ではあるけれど、書き出し遂行中のものはアップします。途中のものもあるので。
 事実とフィクションの割合がより小説寄りのエッセイーみたいなものですから。

 それ以降は今の気持ちとしては決めかねています。 より一般的な話として書き出すかなぁ

これもお付き合いしているってこと? こんなおつきあいの仕方もあるんだなぁ

  普通おつき合いというと、より理解する、より近ずくため。
 でも離れるために“おつき合い”するなんて。



だから、相手のことを知り理解するためのことをお付き合いというならこれもお付き合いと言えると気づきました。



 病気なのは承知しているし、具合が悪くて寝ているのもかまわないけれど、関係を遮断する“逃げる”という言葉状態というのが問題なのです。 

 こういうことがわかってきた、感じられるようになってきたということで言うと、これはこれで“お互いを理解するためのお付き合い”といえると思うのです。



 余りに突然の変わりようにいったい何事が起こったのか理解できないままに、Eメールする。
 返事がない。返事がなければないほどそういう人なんだ、そうされているんだと納得させあきらめるきっかけになると思っています。
 “無視”されればされるほどあきらめがついてくると言うものだと思っているのです。

 今の状態は、突然の事故で命を落としたけれどこの世に未練がのこりやり残したこと悔いがのこり成仏できないという感じ?!



 クリスマスおめでとうメールに返信が来たのは想定外でした。
携帯が着信拒否なんだから,Eメールは当然迷惑メール設定だと思っていました。
 返信が来るなんて思っていませんでした。

 友達なら単なる近況報告メールだとしても返事をするかもしれません。
それで言うとこれだけ何の音沙汰もない。だから友達ですらない状態、そういう関係の人と思えるようになってきていたのです。



 つきあうと言うことは相手のあることだからいくら願ったって自分の思うようにいくとは限りません。

 でもこの状態、メールを出す、返事がこない(今のご時世その気がないなら正しい選択だとは思うけど)で相手のことがわかってくる、ようやく区切りがつけられるようになると願っています。

2012年3月11日日曜日

私の “3・1 ビキニデー” 始まりです

2月28日火曜日朝新潟を出発。


 空は晴天。それゆえか冷え込みが強い。

 新潟からは上越新幹線で東京へ。久ぶりの鉄道利用なので、戸惑うこともあり、すっかり田舎ものを演じてしまう。

 東京からは東海道新幹線に乗継一路静岡へ。



 “3月1日”というのは外せないから年によって集会が平日になるというのは致し方ないけれど、今年は3日間すべてが平日。

 3日も連続で仕事を休むというのはある意味思い切ったことをしたものだと思う。



 とは言え、もうことは動き出したんだから、あとは精一杯吸収してくるだけ。
日程表を見るとぎっしり。 結構ハードだけれど。

 実際にこの足・身体でその場に立ち、音・匂い・風・ざわめきを感じてきます。

 さあ始まりです。

2012年3月10日土曜日

“芸妓”についてのいくつかの情報

私から改めて付け足すことはありません。お読みください。 







F 私の気持ち  いくら私でも今更ですよ

 人間いくつになっても“ときめいて”いなければ魅力がないと思うので、誰かを思ってはいようと思うけど(仮想の恋人)。


このたびのこと、一度こうなってしまうと「今更という気持ち」。
ここまできて、ここまで時間がたってしまうと、改めてさあどうぞ という感じにもなりません。


でも、この病気の人のパターン。Fさんの癖、思考パターンのようでもあるから、落ち着いてまた連絡がきたらそれはそれで太鼓仲間として返事・力づけもするつもり。

(ここが、女性の方は一度決めたらきっぱり、男性の方は引きずる。女性と男性の考え方の違うところでしょうね。わかっています。)   



とにかく。心乱れないと言ったら嘘になるけど、歩き出せる感じがしています。

F 私の気持ち  縁は大切




なぜ 待てる のか  (注 この文を書いた当時のことになってしまいました)

もちろん家族家庭が恵まれれば感謝だけれど、一人暮らしの気楽さになれてしまって。

他人同士で新しい家族を築く、新たな人間関係を作るというのは実際大変なことだし、その大変さに立ち向かう気力も正直なところあやしかったのです。



それでも。
疲れはて気力もなくしていた私だけれど少しずつエネルギーがたまってきていたのでしょうか。

縁があるなら!と考えられるようになってきていました。

縁は大切にしなければと常々思ってもいますし。



とは言っても、そんな私をこれほどまでに変える人はこれまでいませんでしたし、生活していく上で不自由・困ることもないので、特に無理してまで必要性を感じていなかったのです。

だから“待てる”んでしょうね。

今手にしているものを失うのではなくて、もともと手には何も持っていないんですから。



待っている間は何もないんじゃなくて、あったかい気持ちでいられますもの。

2012年3月9日金曜日

F 私の気持ち ついていけませんでした


「ついてこれない人はここにいなさい!」



結局私は(彼女の選択)について行けなくてここにいる。

 というより、動けずにいただけなのでしょう。




最後のEメールに「~逃げる~」 と言う言葉を見つけた時。

もっと他にすべきこと、できることがあったんだろうけど、この言葉に過剰に反応してしまって取り乱してしまいました。



“逃げる” 私が決して言われたくない言葉だったんです。



具合が悪くて私のところで寝ているのはいっこうにかまわないと思いましたし、そう言いました。
話を聞いていましたから、承知の上でした。 

具合の悪いときは、いつものように話したりするのもそりゃできないこともあるだろうけど、たとへ細い糸のようでも良いから完全に遮断でなければいい、今のようでなければいい、逃げたりしなければ。



そんなときこそ頼ってほしかった。

そんな時こそ頼られる私でありたかったのです。

F 私の気持ち ソウルメイト


結局ソウルメイトを捜し続けていたのかもしれません。



家事、日常生活に不便はないし。 一人暮らしの気楽さも味わっていたので取り立てて結婚しようとも思っていませんでした。 

新たな人間関係を築く大変さに臆したところもありましたね。



 もちろん“共に”の人が与えられたらいいとは思っていましたけど。

 Fさんは何でも話してくれましたし、話せました。

こんなに話してくれる、話し合える人はいませんでした。

 これほどまでの人はいないと感じて、いつもの私には考えられない大胆な行動を起こしました。



 でも違ったのかなぁ。 また…

2012年3月7日水曜日

PTSD2題 その2   Fさんのトラウマ 私のトラウマ

Fさんの場合

Fさんからの8月5日・30日目のEメールから
 「~親との関係のこと、そして自身が今のように自己形成したのは、私が小学4年の時に両親が離婚したことが原因だと思っている。~」
 「~両親が離婚した原因は、父に別の女性ができたから。父は再婚した後も、何人もの女性と付き合っている。 ~ (それ以来) ~男性は付き合ってもすぐに他の人のところに行ってしまうと思っていた~」

   (Fさんはきっとお父さんのことがとても好きだったんだろうなぁ)


 Fさんは自分を評して「人との距離感 とるのが下手 よくわからないところがある」と言っていました。

   (確かにそんなところはあるなぁ)


 これは地雷だから、触れない方が賢い人間というものだろうけれどどうしても一言言いたい。  

 子どもを亡くし彼女自身も具合が悪くなったとき、共にいるのではなく離縁だなんて。
彼氏(夫)とその家族は酷なことをするものだと思います。
 とは言っても、夫婦のことは他人にはわからないもの。私なんかが思う以上に大変だったのはおそらく間違いないんだろうとは思います、よ。
 だけど、病んだ時に共にいるのではなく、去っていく。昔一緒に暮らしたマンションに今は別の女性と暮らしているのが悲しいと彼女に言わせてしまっている。それで彼女はなおさら具合が悪くなっていると思うんです。

  
 ところで、もう何年も離れているのにその後のことがわかるなんてすごいけどかえって辛くなるんじゃない?
 私は聞こえてくるものに耳をふさいだりはしないけど、わざわざ聞きたくもない。
この違いが私と史枝さんの相違を生み出しているのかもしれません。

 それから FさんへのEメールで「私はここにいます」 と書くことについて。
 Fさんは「男の人はどこかに行くものだと思っていた」と思い込んでいたので「みんながそうではないよ」と知ってもらいたくて書いています。





私の場合

 言葉で言うと、逃げる 突然いなくなる 消える 去る 朝出たまま帰ってこない 等など様々。 
言葉は違うけどみな共通しているのわかるでしょ。


今の状態になる直接のきっかけはTとのこと。

 Tはお盆休みが終わっても帰ってきませんでした。
私はお盆で実家に帰っているだけだと思っていたけれど、お盆が終わっても帰ってこない。 どうしたの?と電話をしたら「もう帰らないんだよ」と言われました。
 (何もなかったなんてことは言いません。けどこういうことがあったのは事実なんです。)

 Tがいなくなった後も高校受験のMさんは家から中学校に通っていました。
と言っても、朝はほとんど、帰りも結構迎えに行ってたかなぁ。仕事のほかに、洗濯アイロン、食事、必死でした。 でもだんだん疲弊してきて…
 私なんかより母親、そして兄弟と一緒の方がいいかと(つい)言ってしまったのです。

 夜帰ったらMさんが居ませんでした。 忽然と消えていました。

 朝いってらっしゃいと送り出した人が事故で帰ってこない。そういう状態、気持ちでした。



おおもとは

 私をかわいがってくれたおじいいちゃま。 
 おじいちゃまは私が小学校3年の時亡くなりました。 
出張先で倒れて、遺体で帰ってきたんです。
 お葬式・納棺の時はその場を逃げました。最後だからお別れしなさい、と追いかけられたけど逃げました。 
 死んだ顔を見なければ生きたままの記憶でいられるのではないかと思ったのかもしれません。 


 このたびの母親の死に目はわざと避けました。
   (わざと避けたなんてことが兄弟に知れたら何を言われることか。)
 もう小学校の3年じゃあない。もう大人だから。
だんだん弱っていくのも目にしていたから、亡くなったのは知っています。  
 けど息を引き取るところを見なければ生きたままの記憶でいられるのではないかと思ったのかもしれません。

2012年3月4日日曜日

1-15-48 子どもたちが帰ったマゴソスクール さっきの賑わいはどこへやら

   多分に高ぶった気持ちで過ごしたマゴソスクールでの時間も、出発の時を迎えました。

 ゆっくりしていたような、短かったような…



 子どもたちが帰ってしまったマゴソスクール。さっきの賑わいはどこへやら。

 学校の授業は半日で、給食を食べてお帰りということなのかな。



 マゴソの中庭で記念撮影。

いろんな意味でのゲートをくぐり、私服警官のガードを得て再びキベラの道を歩きます。

1-15-47 これも売り物?!  は余計なお世話

 そういうことで言うと、さっき歩いてきた道々のお店での「これも売り物! こんなものでも使い道があるんだろうか? 買う人がいるんだろうか?」という私の心配は、並べている人にも買う人にも余計なお世話ということでしょうね。


 必要とする人 買う人のアイデア次第。思いもよらなかった、本来の用途とは別の使い方が無限に生まれるわけです。







 日がな一日、結果として何にも売れなくともお店を開けているということは仕事をしている(失業していない)ということ。
 人間、何もすることがないというのはつらいことだから、そういうことでも意味のあることと感じました。

2012年3月3日土曜日

助けて! と声を出せるようになるのは確かに大変です


「ここでずっと暮らし続けたい」~支えあいの仕組みづくりの実践から~

というテーマの講演会に行ってきました。
(講師 常設型地域の茶の間「うちの実家」
             代表 河田珪子  
                              2012年2月26日・日曜日)





  この、常設型地域の茶の間「うちの実家」は、現在全国に約3万あるといわれる同様の取り組み・施設の先駆け、聖地と言われているところ。

 もともとは専業主婦だった河田珪子さんは、自分の闘病体験、離れて暮らす親の介護体験から、社会・制度的に足りないもの必要なものを知り「ないなら自分で作ろう」と“まごころヘルプ”( 有償ボランティア組織)を創設し、「自分が利用したくないようなものではだめ」と第一号の利用者になったそうです。

 そのようにして福祉にかかわる中で「地域にはもうほんのちょっとの手助けがあれば暮らしていける人がいっぱいいる」ことに気付いたんだそうです。
 たとえば、買い物や食事作りが大変になってきた人には配食、一人暮らしだったり出かけることの大変な人には話し相手がいれば…
 それらが契機となり、常設型地域の茶の間「うちの実家」を作ろうと思ったんだそうです。

“地域の茶の間「うちの実家」”は、誰が来てもいいように、いつも玄関は開けているんだそうです。

 ここに居る人は自分のことは自分でできる人。
ここにいる人は“場所の利用者であって、サービスの利用者ではない”、身体に不自由のある人でも、自分の身の回りのことが自分でできる人を対象にしているんだそうです。

 運営は地域の人の協力を得ながら地域の中で行われ、できない人 加われない人が出ないようにイベントはわざとしない。
 利用者も協力者も、誰が来てもいいけどあえて常連を作らない工夫をしている。たとえばマイカップなし、わざとみんなが紙コップを使う。

 地域の住人として、利用者にも時には頼みごとをするそうです。
(誰かにあてにされるというのは、いつでもだれでも元気の出ることです。)



  こうした集まりで参加者にいつも聞くのだそうですが、
・お隣の人が助けを求めてきたら助けてあげますか?と聞くとほとんどの人が助けると答える。
・自分が困ったときお隣に助けを求めますかと聞くと、求めるという人はほとんどいない。 
                                                  んだそうです。
 (助けて! と声を出せるようになるのは確かに大変です。)


 一つの形あるものを作り出すとき、また維持するのは、決して楽なことばかりではなかったと思います。
 でも河田さんは“いい夢 妄想”をみて(みることができて)、協力者も与えられて今日があるようです。

 親の介護の時などは今日の話の雰囲気なんかではなく本当に困っていたんだと思うんですが、今は笑顔でさらりと話している河田さんの講演を聞けて有意義な一日を持てたと感謝しています。

2012年3月2日金曜日

ビキニデーから帰ってきました。

 おかげさまで「3・1ビキニデー全国集会」から無事帰ってきました。


 “3月1日” というのはどうしても外せないから、年によって曜日が変わってきます。
 今年はそういうことでいうと全部平日の火水木、曜日の並びが悪かったなあぁ。仕事してると、お金も大変だけど休みがね!



 3・11を境に、その前と後では変わった、と思っていましたがその思いは間違っていませんでした。

 核。原子力発電、核兵器。放射能とそれに対する政府・電気 産業界、“専門家”と言われる科学者、そして運動に対するみんなの気持ちが変わりましたね。
 今回参加して、参加している人たちの話を聞いて、強くそう感じました。

 そして。
このたびの福島第一原発事故が起きたこと。
 その後の対応が、実はビキニ水爆実験(たどれば広島・長崎)の時と同じ経過をたどっている。
 ビキニ水爆実験、第五福竜丸被曝から、もう58年もたっているのに地道な調査研究で初めて明らかになること、科学的裏付けの取れたことがたくさん聞けました。

 

 手に入れた資料の数々。聞いた話、想いなどはこれから整理報告します。
とはいえ今は整理もまだだけど、興奮冷めやらぬ状態なので少し冷静になってから話しますね。その方がただ“すごかったよ”ではなく具体的にお話しできると思うので。