新キ兵11月例会は、92歳になるクリスチャンの方による戦争体験、そして参加者による意見交流の場となりました。
当日の運営についてはもう一工夫あってもよかったという感想です。 今となっては結果論になってしまいますが、年齢による違いは個人差が大きいものの、当日お話をしてくれる方が高齢であちらこちらに話が飛ぶ、話しているうちに別のことを思い出して口にするということを知っている方が運営側に加わっていたんであれば、事前にどういう話・進め方・どういう風に持っていきたいかを打ち合わせておくべきだと思いました。その結果、必要に応じて補足説明の準備もしておくべきだったと思いました。(事前準備、打ち合わせはしていたのかもしれませんが。)
いずれにせよ、戦後70年がたち自分の体験として話すことができる人がどんどん少なくなってきています。 今後実際の体験者の話が一層聴けなくなっていくわけで、今日のような貴重な機会、いかに多くの人に聞いてもらうようにするかもだいじになっていますね。
あと、こういう集まりをどう運営していくか、そして聞いた人たちがどうするかの一工夫が一段と大切ですね。
当日のやり取りの中で思っていたことを記します。
・私のこれまでの体験や見聞きしてきたことから言って、「声の大きい人」の主張が通るというようなことはなくしたい、ということを思っていました。
・以前 ひたしくしている人から、戦前・開戦前に時の帝国日本が国際連盟・諸外国から様々な締め付けを受けたからあの時は「戦争するしかなかったんだ」と言われてどうにもならなくなった体験があります。 私がいくら説明をしても、あの時中国に帝国日本の軍隊はいたけれど日本に中国の軍隊はいなかったということを話しても。説明で腑に落ちるという“思い”の段階ではないんです。
でも、当日新キ兵例会に参加していた人たちには、戦争前確かに諸外国から時の帝国日本に対する締め付けがあった、だからと言ってそれで「戦争するのは仕方なかったんだ」という風にはしてはいけない。実際に締め付け・圧力はあった、でも「なぜそうされなければならなかったのか」そして、だからと言って戦争をしてもいいということにはならない、それとこれは別、戦争するかどうか・人殺しするかどうかは別、正当化はできないということを思っていてほしいと話させてもらいました。
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