2015年12月31日木曜日

このたびの日韓共同声明について


何が起こっているのだろう。

今更どんなことをしても取り返しのできることではないけれど、それでも慰安婦=セクシャルスレーブとされた人々に対する償いをとして行われたと思ったこのたびの日韓協議。

共同会見で受けた印象とそのごの日本側の報告?発言は弁明弁解を聞いているよう、随分違って聞こえます。当事者が取り残されたまま、まさに日韓両政府の政治的な‟手打ち“だったの?

共同会見の場での会見を聴いて、不十分ながらも補償と謝罪はしたのかなと思っていたのにそれすら私の勘違いだったと思えてきます。共同会見の時をピークに後退してきた日本の対応・発言。反発を強める韓国世(せ)論。この世論の変化に世(よ)論も変わることが必然という感じ。

当事者が置き去りにされたまま政治的にとしか見えない今、このままで無理に決着を急がないほうがいいと思います。

14-11-7 首里城 鎖之間で さんぴん茶

  バス後ろの人が話しています「沖縄名物のさんぴん茶を飲みたい…」と。さんぴん茶? 

   

今日は今朝から国際通りそして平和通り(名前がいいねぇ)をずぅっと歩いて、ゆいバスのバス停が見つからずにバスターミナルまでまた歩いてやっとバスに乗り(おかげで市役所に県庁にみんなわかりました)、アッここにバス停があったのかと思いながら市街地を抜け小高い丘・お墓の並ぶ一角を抜け首里城下に到着。首里城でも歩いて歩いて本当に喉が渇きました。そんなでしたから首里城鎖之間で琉球時代からの銘菓をお茶うけに庭を愛でながら口にするさんぴん茶はほんとにおいしく、乾いた口も身体も生き返らせてくれました。 
 

このたびこちらに来て耳にした“さんぴん茶”はジャスミン茶のことでした。どちらが正しいのかというようなことではありません、場所によってということでしょうか。でも中国ではシャンピン茶といっているようですからそのつながりなんでしょうね。
ジャスミン茶と呼ばれるものはこれまでにも飲んだことがありましたが、どうも香りが立ちすぎている印象で、酒席などで口にすると口はすっとするけど日常に飲みたいお茶という印象ではありませんでした。
でもこの日この時のさんぴん茶は全然違いました。土瓶といってもいいほどの大きさの急須から注がれるさんぴん茶は、口もすっとするし喉から食道を伝って胃袋に到達したお茶は体中に浸透していって、ちょうどしなびかけた野菜がシャキッとなっていく時ってこんな感覚なのかなぁが実感されるような感じ。
みっともないかなぁと少し心配になりましたが、お代わりをして味わいさせてもらいました。

2015年12月29日火曜日

日韓外相会議(12・28)慰安婦=セクシャルスレーブ問題について


昨日の慰安婦=セクシャルスレーブに関する日韓の外相会談、正直なところこんなにあっけなく一つの節目を迎えるとは思っていませんでした。いまだに‟不可逆的に“という言葉が引っ掛かっていますが。
この後はもう何も言っちゃだめですよ・・・ 今検討されていることに限って言うならば、まだあり得るのかもしれませんが、それだってまた変わるかもしれないし、肝心の当事者の人たちのこと気持ちはどうなっているのかと思ってしまいます。  
下手なたとえ話はしないほうがいいのでしょうが、自動車事故の保険の区切りとして一度‟完治“とされた後でも後遺症が明らかになったときはまた別ですからねぇ。
 

まず、認め謝るのが最初と思っていました。そういうことで言うと、これまでの言動からして決して本意ではないだろうなぁと思うけどまずは公人としての首相・内閣総理大臣という立場での選択が少しはできたのかなぁとも思います。でも、特に韓国側が具体的な方策にまで一気に行かなくてもよかったのではないかなぁと正直なところ思います。
聞けばこの日に向けて相当突っ込んだやり取りがなされていたとのことですが、日韓双方‟今年中に“という言葉が急がせたのかも知れません大きくのしかかったのかもしれません。
 
昨日の事ももちろん、今後の具体的な対応・進展に注視していきます。
 
 日本大使館真ん前の少女像の撤去については、この過ちを忘れない 繰り返さない 自分への戒めのためにも残すというのが正しい選択だと思っています。
そのうえで、撤去してもいいでしょうということに(時期も)成ったら日本大使館前から韓国の人たちの手で動かしてもらえばいいと思います。
 

2015年12月28日月曜日

14-11-7 日本という独立国の上空をよその国の軍用機が飛ぶ様


アメリカ軍の軍用機が首里城の上を飛んでいます。首里城正殿の屋根両脇の龍を見てから飛行機の写っている写真のほうに目を移してください。いかに近くを飛んでいるかがよくわかると思います。世界遺産の上をというのもどうかと思いますが、何より人が大勢暮らすそのすぐ上を日常的に軍用機が飛ぶという行為が許されていいわけがありません。

昔妙高山山麓の牧場に行ったとき、谷合からいきなり戦闘機が飛び上がってきてすごくびっくりしたことがあります。オレンジルート内の空域で、谷筋から稜線を縫うように飛行訓練をしていた戦闘機でした。今目の前を飛ぶ飛行機は、大勢の人が普通に暮らしている沖縄・那覇の空をこんな危ない飛び方をしているのです。人が多く暮らす街でこんな飛行が行われているなんて良いわけありません。

またまた 態度が逆でしょ!


2015年も最後の最後にきて‟慰安婦“問題での日韓外相会議が行われることになりました。(20151228日)取り返しのできない問題が、当事者の人たちが少しでも心安らぐ形で進展・解決することを切に願います。

でもこのたびの日本側の会談に臨むにあたっての意向を見聞きすると、これは謝る側 悪いことをした側 許してもらう側の態度ではないと感じます。 夏8月の安倍首相による70年談話の歴史認識を改めて問う以前に、「いつまでも謝り続けるのはやめにしたい」という態度、悪いことをした側が言える言葉じゃないでしょと思ったものですが相変わらずの態度です。

 50年前の日韓国交正常化時にすべての責任・補償問題は解決したとする解釈も問題ありです。その時は今のように公に触れられていなかった問題なんですから取り上げられても当然のことだと思います。それを解決済のことにしようなんてここでも本末転倒の不遜な態度を感じます。

 仮に韓国政府との間に‟政治的“決着が図られたとしても韓国の人たち何より悲惨な目にあわされた当事者や、韓国以外の慰安婦=セクシャルスレーブの人たちとの対応で終わりではないことを忘れません。

2015年12月25日金曜日

14-11-7 ‟首里城”が世界遺産に成っているわけ


世界遺産としての首里城(2000年)

首里城は第
2次世界大戦により壊滅してしまい(1945年)その後再建運動が続き1992年に復帰20年記念ということで再建され国立公園となったもの。2000年には世界遺産に登録されています。





 個人的ないきさつもありこのたび行っておきたかった所の一つ。
 念願かなってくぐった守礼門 門をくぐって初めて目にした正殿。念願かなってという思い、その大きさといい色合いといい見事としか言いようのない正殿、さすが世界遺産にまでなるわけだ。と思いました。 

 ところが首里城・正殿内をいろいろ見聞きしているうちにわかったのが、この建物が世界遺産(になった)ではないということ。正直驚きました。 そして感じたのが戦争(第2次世界大戦中の1945年に破壊された)とその後の自分たちの文化・歴史を守ろうつなげようという人々の思いのこと。



世界遺産に成れたわけ

みんなが通る通路の一角がガラス張りになっていました。なぜガラス張りで覗けるようになっているのかと訊いてみました。 そしたらこの「石組みが世界遺産認定の根拠です。」との由。

考えてみればとても立派な首里城の建物だけれど戦争で破壊しつくされ最近になって再建された建物、敷地内にはまだ重機もあり工事中のところもありました。


いろいろ考えさせられる首里城行きでした。

2015年12月23日水曜日

クリスマスには奇跡が起きる


奇跡が起こりました



勤務のため、先生の手作りお菓子とお茶で茶話会の一年最後のヨガ教室に参加できないとあきらめていました。いくら曜日に関係のない職場・勤務とはいっても、年末のこの時期で土曜日はいろいろやることがあるだろうしみんな休みたいでしょうから。   

そしたら、おめでたの娘さんの検診に仕事でいけないご主人に代わって付き合うことになったので変わってもらえないか(私がその人のかわりに金曜日に出て、相手が土曜に出る)との話が。

泊まり開けの次の日、クリスマス。その日に喜んでもらえることができるなんて。それで私もヨガの茶話会に参加できるし。双方が嬉しい奇跡のプレゼントです。



ある映画で「奇跡というものは、努力した人に神様が時々架けてくれる橋のようなものだよ。」というセリフがありました。 私も何か努力していたのかなぁ。

入浴担当がなぜか3日も連続したことがありました。どんな人の時でも楽なわけではありませんが。体の動きが思うようにならなくて介助するのが大変というよりも、これから何が起こるのか不安になって入りたくないという人に清潔になり和んでもらえるようにというのがなかなか大変。それを何人もとなると、汗びっしょりになるしほんとに大変。そんなそんなわけですからまた今日もか~と思わないでもありませんでした。けど、だめだと思う人にはさせないだろうし、今年から勤め始めた私も大丈夫と認められたのかなぁと取るようにしました。

こうすること自体が本当に心からということではないという証拠かもしれませんが私なりの努力といえば努力、そこを神様は見ていてくれたのかなぁだからかなぁと感謝しています。

 やっぱりクリスマスには奇跡が起きる。

2015年12月22日火曜日

知識の形 暗黙知と形式知


日本経済新聞 2014114日 学ぶ‐磨く‐育てる のページ

 岸本義之 経営書を読む の囲み記事より 野中郁次郎ら著「知識創造企業」紹介から



「知識には 暗黙知と形式知がある」 というくだりが目に留まりました。

読み込んでみると 「西洋哲学では、一定の文法規則で作られた形式言語で表すことのできるものが知識とされている。日本では形式言語に表しにくい無形的な要素が重視されている。」 そして「 西洋的な知識は一個人によって創造されるのに対して日本では組織内の交流の中で作り上げられる傾向がある」 なるほどなぁと思いました。

形式知は明示的知識 客観的に表し理解できる知識   暗黙知は客観的に伝えにくい経験的知識 ともに働く経験を(交流)通じて形成される知識 と言い換えることもできるようです。 

このように整理解説されると博識が増すし好きだなぁ。



「欧米と日本では知識のつくり方と使い方が異なる」という記述もありましたがこれについてはそんな簡単に分類できないと思いました。イメージとしてはそうなんだけど、暗黙知についてはどちらにもと思うし、特に製造技術の形式知化では日本のほうが進んでいるところもあるんじゃないかと思っています。

2015年12月21日月曜日

小説の地の文 映画の表現


2014817日の日経新聞 サンディニッケイ読書のページの囲み記事「半歩遅れの読書術」作家の井上荒野さんによる一文 -映画と原作 映像の気配と「地の文」の表現- これが特別取り立ててここ!というものがあってのわけでもないのだけれど妙に気になっていました。しいて言うならば ~ 映画と小説を比べれば、例外はあるにせよ、小説のほうが圧倒的に情報量が多い。・・・小説の面白さというのは、本筋に無関係な登場人物、会話、サイドストーリー、あるいは文体そのものにも存在するので、映画化に際してそれらがそぎ落とされていると、どうしても「足りない」という印象になってしまう。   逆に、映画が過剰に思えることもある。小説には会話のほかに「地の文」があるわけで、その部分を映画がどう表しているかが鍵になる。地の文に書かれている情報を、すべて会話に盛り込んで説明相とするのは無理があるしリアリティも失われてしまう。人はふつうの会話で「あなたが荒野さんの夫の典夫さんですね」などとは言わないものだ。小説のテーマを登場人物が明言したりするのも白けてしまう。  もちろん原作がある映画で、素晴らしいものはたくさんある。そぎ落としたもののかわりに、映像や音楽で気配を作ったり、説明させることができるのだから。・・・~のあたりが気になっていたのだろうか。

それがここへきて平田オリザさんの著作で脚本のつくり方を読んで腑に落ちたこと。だめな映画として、映像を手段として使える映画なのに映像ではなくて出演者に言葉で説明させている作品ということがあるけれど、ちょうどつながってくることに気づいたんです。これだったんですねぇ。

2015年12月20日日曜日

ブログが止まっていた一番の言い訳は    師走とクリスマス 




12月というと日本の言い方では師走。でもみんながクリスチャンというわけでもないはずなのにこのクリスマスの盛り上がり。私の中ではクリスマスのほうが大きな存在だけれど、年末年始を前にいつもと違う神妙な気持ちで今年を振り返り新年を迎えるのもいいと思いますけどね。(師さえも走り出すという意味合いがある通り一年納の12月は忙しい時期でもありますが)

さて、このところブログの更新が滞っていました。 パソコン事情もあったし、今年縁あって務めているところのだいぶ慣れてきたとはいえ曜日に関係なくの泊り早番・遅番の勤務形態、寒さで温かい布団からなかなか出られないなんてこともありました。クリスマス行事にも参加していました。Kのグループのクリスマス会も先日終わりました。今日は(19日)ミュージックセラピー歌の花束のコンサートでした。(ミュージックセラピーの講習会かと思って行ったのは勘違い)まだまだ続く行事といよいよ本当のクリスマス。

 クリスマスには奇跡が起こる! 

今年は勤務になってしまったので参加できない一年最後の日のヨガは先生手作りのお菓子とハーブティーでの茶話会、私にとってはいいクリスマスプレゼントだったんですけどね。残念



こんな感じで忙しくしていたのでブログ更新が滞っていたともいえるけど、一番は書いていたことが沖縄ということかなぁ。進まない時なかなかまとまらない時は一時そこを飛ばせばいいようなものだけれど、単なる名所案内紀行文で済ませられないという思いがあって進みませんでした。やはりそれだけ‟沖縄“を書くということは重いんだなぁと改めて思った次第です。

2015年12月19日土曜日

14-11-6 想像する力




離れたところで起きていることを想う 離れたところにいる人を想う 今目の前で起きていることをさかのぼって確かめてみる 今目の前で起きていることがこれからどうなっていくのかを想う 

距離的に離れている 時には昔そしてこれからのことを考える 自分の立場ではなくもし相手だったら そこにいる私ではない別の人その当事者だったら。

へだたり この隔たりを埋めてくれるものは 想像力だと思います。こんなことをしたら いまミサイルが飛んでいくあそこは これをしたら 昔こんなことがあってそれからどうなった ・・・

今の安倍さんたちにはその想像力があまりにもなさすぎます。それだけでなく、すでに失敗を実証済みのことをなぜやるのか、承知でやっているのだとしたらほんとに救いようがありません。





でいろいろ考えやってみるとして、沖縄の人は違うなぁ北の人間とは違うなぁ、かなわないなぁ、この隔たりは埋められないなぁと思うのが沖縄の人たちの運動のすすめ方。

大きな問題 深刻な問題ほど運動は無理ない負担で楽しく。性格的には楽天的なほうが長続きと思います。この基地ゲート前の座り込みの人たちとの交流の時、元先生という人の歌と踊りが披露されました。こんなところで歌と踊り~!とも思ってしまいましたけど、目の前の座り込みは辺野古の新基地反対の座り込みだけれど、考えてみれば沖縄の人たちは戦後70年間ずうっと基地反対の平和運動を続けてきたんだからある意味こうでなければ続いてこなかったのかもしれないなぁと考え直しました。私も北の人間としてそれが悪いとは思っていませんけど北の人はどうも真面目真面目になってしまいますので違いを感じます。

北・寒いところの人と温かいところの人の生まれながらの違いかなぁ かなわないなぁ。この楽天性 感じ、ある意味肩の力を抜いてということなのかなぁ。だけど肝心のところは決して譲らない、そこは同じつもり。取り組み方進め方は多少違うけどこっちでも継続してますよ。

2015年12月7日月曜日

12-6-1 気温で10度も離れているところでの想い


気温で10度も違うということは地理的にそれだけ離れているということ。(2014年11月)

2012年初めて沖縄に行ったとき、戦後生まれのまだ若い地元の人と話すことができました。後で思えばなんと無謀なことをと思いますが、その人と基地問題のことで話したのです。これまで自分が基地反対の運動に多少なりともかかわってきたことが正しかったと感じたい思いがあったのかもしれません。ところがその人が「生まれた時から普通に基地があったから…  」といったのです。もちろんこの人も戦争をいいことなんて思っていません、本当は基地がない沖縄のほうがいいとも言っていました。もちろん沖縄の人が100%セント基地反対で一つになっているなんて単純には思っていません。内心・本当は反対でも様々な事情で‟反対”を表明しない・できない人もいるでしょう。簡単に割り切れるものじゃないですよね。恐ろしいことだと思うけど、中には基地も戦争も推進している人だっているわけだし。

気づいたんです。私なんかにすればそれだって決して楽なことじゃないんですけど、気温で10度も違うほどに遠く離れたところで‟戦争反対 基地反対“と口にしている困難さに比べれば地元の人の困難さはそんなもんじゃないということ。基地がある景色しか知らずに育ち生活している中、限定的ではあるけれど返還された基地跡の再開発で街が大きく変わったのを知っていても、景色を変えてしまうほどの行動というのは並大抵のことではないということ。

ところで、東京をはじめとする大都会から遠く離れた地方の原発がある町の若者があるインタビューに答えて「ここにはほんとに何にもなかった」「原発があるのが生まれてから普通の景色だった」というのと同じだったのにはびっくりしました。
付け加えて、原発を持ち込もうとする人がずっと言ってきた「原発ができれば仕事もできるし生活が豊かになる」この原発を基地と置き換えると沖縄でずっと言われてきたことになるのも単なる偶然とは言えない作為を感じます。でもこれが間違いだということは原発があるところを見ても、何より日本で一番基地がある沖縄がいまだ日本で一番豊かな県になっていない事実を見てもすぐわかることです。
地元の人の思い 遠く離れた地の人の思い。遠く離れているから口にできる場合もあるならなおの事地元・当事者の口が重い時は声をあげ共同していきたい。(アムネスティの考えはこういうことなんでしょうね)地元・当事者と全く同じではないことに気づきもしましたが、この”10度“の差は差としてともに歩んでいきたいと改めて思っています。

2015年12月5日土曜日

14-11-5 沖縄の空気・気温差




一度目の時は6月、ちょうど梅雨の時期。そのせいなのか自動ドアが開き空港の建物を出たとたん日差しとも相まってむっと来る感じ。こちらではどう言うのでしょうか、梅雨の時期だからただ雨それともスコール? バスの待つ駐車場のわきのほうはまだ濡れていました。


 二度目は11月。なのに、さすがに身体をくるまれるようなむっと来るような暑さではありませんが気温は278度。27度というと新潟の夏・7月末、私の住む海沿いは梅雨明けの日差しと湿気が一緒になって一番暑さの堪える頃の気温。 沖縄もさすがに肌に突き刺さってくる痛い日差しではないけれど新潟の11月は20度に行きませんからねぇ。そう10度も違うんです。

 帰ってからが怖い怖い

2015年12月3日木曜日

14-11-5 那覇空港の空域規制




ポンッという耳につく音とともにシートベルト着用を促すサインが点灯しました。

いよいよ那覇空港への着陸態勢に入りました。それにしてもスーッと行ってガクンと下がるこの様、今回で2度目だけれどやっぱり不自然。

一度目の時は、これが話に聞いていたアメリカによる空域規制かと強く思ったものです。

空は広く海も広いけれど好き勝手に飛んでもいいわけではなくて空路だったり海路があるということは知っています。でもこの不自然な飛び方は日本の国民が技術的に決めたものではなく、アメリカ(合衆国)によって一方的に空を奪われた結果。

日本の空なのにどこをどう飛んでもいいとよその国に許可されて初めて飛べる現実。2度目だけれどやっぱりなれません、不自然。この不自然さ、決して慣れてはいけないことだと思います。那覇空港へ向かう飛行機のこのぎこちなさ、感じるたびに思いだしましょう。

2015年11月27日金曜日

14-11-5 不屈館 1/2




 一回目の沖縄行き2012年にはなかった不屈館。その後2013年報道で、瀬長亀次郎・沖縄の人たちのまさに不屈の戦いを記憶保存する‟不屈館“ができたことを知り、私としては2回目になる2014年の沖縄訪問の一つの目玉でした。

 2度目の沖縄行での最初の訪問先はその不屈館。

不屈館は空港からバスでわずか15から20分くらいの行程。街の賑わいから少し奥まった所に立地し、思ったより小さい階段のある建物でした。 こまごました資料まで実に丹念に集め展示してあります。そこに私たちがいる間にも、個人で団体で多くの人たちが入れ代わり立ち代わり来るので決して広いとは言えない館内は人でいっぱいになるときも。

館長は瀬長さんの娘さんでした。この娘さんも奥さんも父を夫を誇りに思いながらも決して楽な日々をおくってきたではなかっただろうに実にほんわかしたいい感じの人でした。

‟弾圧は抵抗を呼ぶ 抵抗は友を呼ぶ“ まさにこの言葉通りにその頃も今も支える人・友が大勢いる証のような気がしました。

瀬長亀次郎 一度目にしたら目に焼き付くその風貌、数々の感動的な逸話。
生きた時代 かかわってきたことが日本 沖縄の歴史(特に植民地支配からの自立に向けての運動)そのものの人だと思います。
展示資料にはこれまでに知っていた逸話 今日初めて知る逸話の数々、感動的な話に関するものが実にたくさんありました。沖縄・瀬長さんのことを扱ったまた記録映像もたくさんありました。
私が思っていたよりはるかに多くをなした人だったようです。その資料の一つ一つを紹介するのはとてもしきれないことですが、たくさんの資料 逸話を一つ一つそして時系列に改めてみてみると、戦後の沖縄・今の沖縄の実情をうかがい知ることができます。もちろん私の知識としての理解と沖縄の人たちの肌感覚は同様ではないでしょうが。

瀬長亀次郎さんのように人生を生き抜くのは決してやすやすとできることではありません。普通は、感じていても行動に移すそしてそれを継続することは願ってもでもできることではありません。私なんかの想像を絶する困難に何度も何度も直面したことでしょうけれど、このように人生を生きることができたのは実に満たされた人生でもあったでしょう。

14-11-5 不屈館 2/2 写真の持つ力




ここの展示を見ていて改めて写真の持つ力というものを感じました。

伝え聞く逸話だけでも十分に感銘を受けていたのですが展示されている写真を合わせて見てみると一層印象が深まりました、それで気づいたことです。

たとへば文化人類学の調査の時調査記録写真、紛争地帯の報道写真、それだけでなく日常の風景やスナップ写真に写しこまれていることでもすごい情報。それらは時には人を歴史を変えて来たと思っていましたが今回改めて写真を撮るということの意義を感じました。

いろいろ考えて撮る‟芸術”作品ももちろん意味のあること。でもそのような撮り方・写真でなくとも‟専門家“でなくとも、まずその場に立ち会う まずシャッターを押すということが大切なことだと改めて思いました。


上から3番目の写真。パンフォーカスの観光写真だけど占領軍に対してただ一人意思表示している姿が記録されています。

2015年11月24日火曜日

家電のように欠かせないけど 家電並みにはなりきっていないパソコン


イヤー苦労してます。

調子のよくない2台のパソコンをだましだましどうにか使っていたのですがついに全くゆうことを効かなくなって、このタイミング困ったなぁと思いながらもなしではいられないので新しいパソコンを買いました。
パソコンは日常の生活に欠かせなくなったということでは家電製品になったということ。 けれど同時に、更新とかいろいろ難しい設定をしなければならないということではまだまだ家電製品になりきってないということだと思っています。

今度こそはVAIOはやめました。先日1眼を新たに買い足したりしてソニーさんは好きなんだけど、その1眼も含めてもうちょっとしっかりしてよ!と思っているので。
ワープロの時のプロディユースから数えると何台ソニーのPCを使ってきたのでしょう。新製品が出た時にそれを購入するファンがいなければ始まらないことだし、好きだったからそれはそれでいいんだけどソニーという会社の独自路線には何度も痛い目にあわされてきました。希望する機能をすでに備えた製品が別のメーカーであるのに、不便を承知でソニー製品を買って使ってきたけど、このたびの新しいパソコン購入ではついに別のメーカーにしました。VAIOが出る以前にはNECやコンパックを使ったこともあったけれど久しぶりです。
何台も買い替えてきたVAIO、どの機種も何らかのトラブル・ストレスに見舞われたし、このたびのきっかけになった一体型のディスクトップは2度同じ修理をしてそれが再びだったからもうあきらめました。期待したディスクトップがいま一つだったから購入したノートのほうも最初からどうも調子が悪くてストレスを感じながら使っていたのですがこのたび立ち上がらなくなってしまってもうどうしようもなくなってすべてあきらめました。

新しいパソコンは、職場でなじみのある惜しげなく使っても堅牢な別のメーカーのディスクトップ型で、液晶が別のタイプです。これならダメになっても液晶だけでも残りますしね。本体に余裕がある分放熱の関係でもいいんじゃないかな。
設定も含めて慣れるまでまだしばらく時間がかかるんだろうけど、今のところはいい感じです。



そんな経緯があったので結構中断していました。

2015年11月23日月曜日

いま改めて沖縄の人を想う


TPP 安保法制 そして基地問題のことを想うとき、改めて沖縄の人たちのことを想います。 

沖縄には2012年と2014年の2度行ってきました。2度目の時は「まさかこんなに早くチャンスが回ってくるとは!」と思いましたけど、初めて沖縄に行った時・辺野古の新基地反対のテント訪問をすることができた時、そして高江ヘリパットと平和の礎に行けなかった事がどうしても悔いとなって何時かと思っていたので迷いませんでした。

2度目の訪問となった2014年の11月はちょうど沖縄県知事選・那覇市長選の時期でした。 その時一番印象に残ったのは、“自分のほうから どうぞと土地(基地のための)を差し出したことは一度もない”とみんなが言い切ったこと。訪問した先々の人たちの口からだけでなく、たまたま乗ったタクシーの運転手さんの口からも同様のことが出てとても印象的でした。 いろいろな立場の人がいるし、決してすべての人が同じ対応をしているわけではないけれどこの認識では一緒なんだなぁと強く感じました。

そう思うと、TPP 集団的自衛権・安保法制を強引に成立させてしまった安倍首相をはじめとする現政権の姿勢は、卑屈に跪き日本の人たちのためにではなく日本の尊厳までも差し出しているとしか感じられず大きな違いを感じます。

改めて沖縄の人たちの(日本の0.6%を占めるだけの沖縄に74%の基地が集中している)“自分たちのほうから どうぞと差し出した土地・基地はない”という気概。政治的立場を超えて、自分たちの命を守ろう 沖縄の未来を守ろう アイデンティティのために立ち上がり手を結びあっている沖縄の人たちの立ち居振る舞いに崇高さを感じます。

2015年11月6日金曜日

10-9-16  今も歴史が流れ続け戦争(休戦)状態だった韓国


今回の韓国行は韓国併合100年の節目ということで、旧日本が韓国を侵略していたころの歴史を巡るということが主目的。私もその趣旨に引かれ、普段の観光では回ることのできないところ聞けない話が聞けるということで決めたわけです。

ただ、韓国での受け入れ先の旅行代理店も商売だからでしょうかお土産物店もそうだけれど観光名所を巡る日程も盛り込まれていました。こういうところで変にかたくなな私、趣旨から見てどうなのかなぁと全く思わなかったわけではないけれど初めての訪韓だし すっかりはまってしまった韓国ドラマの物語は(実際にここでロケをしたのかどうかはわかりません)ここを舞台(背景)にしてのものだったのかと思うとちょっとうれしい。
 
立ってみた故宮のさまざまは、日本で思っていた時別々のところにある建物かと思っていたものが、実際は敷地面積15万坪と言われる景福宮の敷地内にあるものばかり。青瓦台さえもその敷地内に収まっているのには、歴史 文化ということで考えるものがありました。

何百年もかけて今目の前にある規模、素晴らしさに至ったわけですが、考えてみればこれまで根拠なく漠然と思っていたものをはるかに超えるものでした。あのシーンはここを舞台にしてたのかと感激。単純なんだから。 説明についてくれた韓国女性の日本語も流暢、感じもいい感じ。
 

思い出したことがありました。ここで、日本による韓国併合前に李王朝の王妃が暗殺されるという事件があったことを。そういうことで考えてみると、ここもただ観光名所というにとどまらない歴史があったということですね。ソウル・韓国全部が今も“休戦状態”であり歴史そのものなんだと再認識する旅でした。

2015年11月1日日曜日

粋じゃないねぇ

 粋なふるまいの反対のことを本来は野暮というのだけれど、この度のことは野暮という言葉もはばかれるふるまい。  野暮ならまだ人間としては救いようもあるかというものだけれど、いうならば無粋でしょうか。

   またやってくれました、菅官房長官。 ユネスコが「南京事件」に関する資料を世界記憶遺産に登録したことに対して、菅官房長官が(ユネスコに対しての)拠出金を減額・停止をするぞ と公の場で脅す発言をしました。

もともと日本にはそれがたとへやせ我慢だとしても“金は出しても口は出さない”というのを粋なふるまいとする考えがあったはずです。
今はこのユネスコのことにとどまらず、大学・教育に対してもどんどん介入をしてきていて、いうことを効かなければ金(予算)を出さないと公然と口にし進めている状態。
ほんとに粋じゃないねぇ、かっこ悪いねぇ。 

 

今の日々刻々と変わる社会情勢の前では…と思わないでもありませんが、フィリピンに出かける前に報道された“日本の”なんともみっともないふるまい。沖縄に新たな巨大新基地建設を強引に進めているふるまいともども情けない。
このところ国際的な場に登場することの続いた安倍首相。さすがですねぇさぞお値段も高いんでしょうねぇ、吊るしなんかじゃぁなくて一からちゃんと採寸した背広に身を包んで。だけど様になっていないんですよなんか背広に着られているみたい。おっと話が脇にそれてしまいました。
これらは菅官房長官一人の発言 姿勢ではなく安倍首相をはじめとする政府全体の考え立ち位置・姿勢の反映。それをつなぐ言葉としては道理のないめちゃくちゃ 無理 でしょうか。

2015年10月28日水曜日

15-10-0 「初めて行ってみたフィリピン」  

 
  初めてフィリピンに行ってきました。

考えてみればここ何年もまえから基地問題 社会問題・貧困 フェアトレード等々で縁があったことに気づきました。今年お正月に初めて口にしたフィリピンプリンをブログで紹介しようとして調べるなかでフィリピンに関する知識も少し増えました。そんな中 旅行会社から送られてくる案内にフィリピンのスモーキーマウンテンやスービック クラーク両基地跡を回るツァー企画があるじゃないですか。今年はそういうめぐりあわせの年かなぁと思いました。

ところがその企画、15人が最低実施人数だったのに3人しか応募がないということで中止になってしまったんです。それでどうしようかと思っていたところ、この春 介護の仕事をしたいと日本にいるおばさんを頼ってきたフィリピンの人の相談に乗ってやってほしいと頼んできた人が3年ぶりにフィリピンに行くということでそこに同行させてもらいこの旅の機会を得たというわけです。 感謝

ただ、あちらで案内してくれる人がスモーキーに行きたがらない。それだけ“危険を伴うところ”ということなのでしょうか。でもまぁ一度フィリピンに行ってもみよう。スモーキー行けないのは残念、だけどこれはこれで情報。こういう形でも得るものがあったと思いました。 

匂い 光線の具合 景色 暑さ 音 生活 限られた期間で巡った場所も限られた処だったけれどこれも確かにフィリピン。写真もいっぱい撮りました。フィリピンと日本の約20度という温度差に今体調がおかしくなっていますけどとにかく無事帰ってきました。これからたくさん紹介しますね。

それでは  

2015年10月14日水曜日

10-9-16 南大門地域 4/4 印象

  
久しぶりに“うねうね”という言葉が頭に浮かびました。

 解散(自由行動)を前に李さんからのアドバイス(注意?)がありました。「奥まで行くと私も探し出せないので、携帯を持っていない人はお店に入ってお店の人に電話を頼んでください。かけてくれますから。」と、電話番号の書かれた名刺を手渡してくれました。最後に「集合はここに30分後です。」と言われてみんなは思い思いの方向に分かれました。

 市場は30分で回りきれる規模ではありません。回れるだけ回って視てみよう、ぐるぐる回りながら集合場所に戻ってこようと思って小走りで歩き出しました。
路は並行に走っているわけでもなく真っすぐでもなく先が見通せません。案の定というか迷ってしまいました。 暗くもなってくるし、これはまずいなぁと思いました。時間のこともあるし、どんどん深みにはまっていく感じで焦りました。
それでどうしたか。これは通ってきたところを素直にたどって戻るしかないな、と内心ハラハラドキドキしながら市場を歩きました。

  その時の印象(おもい)は、自分の身長が急に低くなり相対的に高くなった畝に先の見通しを阻まれ見通せないそんな感じ。それで“うねうね”この言葉が頭に浮かんだというわけです。実際のところ路は舗装されているので作物の植えられている畑のような状態というわけではないのですが、まっすぐでも並行に走っているわけでもなくこの横への広がり具合・先のほうまで見通せない曲がり具合なんかを目の前にするとこの言葉がぴったりという印象です。

悪い印象ではありません。その広がり・移動・形を変えていく様は混沌ともいえるけど粘菌のように移動、生物が増殖していく(いる)という感じかな。でも立地と時代の流れ年代()の変化を考えるとずうっとこのままの位置づけこの規模ではなく観光名所としての位置づけが強まっていくのかなぁと考えてしまいます。

2015年10月11日日曜日

2015 なくそテ原発 柏崎大集会


2015 なくそテ原発 柏崎大集会」 に参加してきました。(2015.10.11 柏崎市海浜公園・夕日のドーム)  

会場となった夕日のドームは柱と天のあるだけの非常に開放的な会場。そこに息継ぎをするように時折激しい雨風が横殴りに吹き込んでくる天候でした。

参加者は主催者報告で1300人。カンパも報告時点での途中集計で40万を越しているそうです。報告に続いて提案がありました。それは「来年は東京電力・柏崎刈羽原発を人間の鎖で包囲しましょう。(壇上から見渡せる方向にある) その為には今日の参加者の3倍の3900人が必要です。どうか皆さん、来年は知り合いを二人ずつ連れてきてください。」というものでした。いいねぇ!
 

ところで、昨年に続いての参加で今年は“制服向上委員会”が出るということで注目していました。そのステージ、登場した制服向上委員会のメンバー(今日は3)は、正しくは“見目麗しい”と言うのですが、“見目かわいらしい”と言ったほうがぴったりの感じ。振り付けも声もかわいらしい。ただし歌唱力としてはAKBなどのアイドルグループの中ではしっかりしている印象。 

“制服向上委員会”の名前は前から知っていました。原発や戦争をテーマにした作品で 話題にはなるけれどテレビに出ないし、特に今年6月に安倍首相が怒ったとか脅迫騒ぎがあったとかいろいろ話題になって一度聴いてみたいと思っていたのでいい機会でした。
初めて観る・聴く制服向上委員会のメンバーは、小柄でかわいい声、曲調も明るい。でも、歌詞をよく聴いてみるとよくもまぁという感じ。ある意味突き抜けていて、思わず笑ってしまうほどおちょくっている。これじゃぁ安倍さんも怒るだろうなぁという歌詞。見た目もよく歌もうまいのにテレビに出ない(出られない)わけがよくわかりました。

スタンダップコメディの松元ヒロさんの逸話を思い出しました。ライブのあとNHKのディレクターが控室にやってきて「ヒロさーん よかったよーッ 出せない!!!」と言ったというもの。 ちょうどこんな感じかな。
 

 さて、今日は一人で来たけど今度来るときはどんなかな?! 来年が楽しみです。