どっちだったかなぁフランスだったかイタリアだったか、二人よれば三つ政党ができるというのは。 イタリアかな!?
世界にあまた映画祭・賞があるけれど、その中でも歴史と言い権威と言い誰もが認めるカンヌ映画祭。
もうずいぶん昔のことだけれど選考にあたって面白いことを聞きました。
それは 自分たちの理解できないものを 評価 受賞させる と言うこと。
私が兼務で朝出勤する所には、上司ではないんだけど専任で配置されている人が一人います。
何年くらい努めたのか、どういういきさつがあって辞めたのかわかりませんが、昔小学校の先生をしていた人です。
この人が、もっと普通に話しても事足りると思うんだけど、大きい声、威圧によって言うことを聞かせようとするんです。
大声で威圧的に、怒鳴っているうちにどんどん興奮、勢いがついてとどまるところを知りません。口角に白い泡が出てくるほどだから相当な興奮状態。皮膚・肌の色合いもかわいた感じ、目が座るというか表情もありません。
その人にしてみれば“火種”は私の方にあるんだけど、そんなに興奮して言うことかなぁとびっくり。
普通の町内、ご近所の人間関係だったらこんなことってある!?ッて感じ。
怒りの感情で、大声で 威圧的に 怒鳴る と言うこと自体がよくないこと、問題だと思います。でも私が思うに、経験がない、自分の理解の範疇を超えている 理解できない それで 攻撃する 排除するという行動に出ているように感じます。
こういう展開になると、先生上がり と言うことを考えてしまいますねぇ。
と言うのは、みんながではないけれど “先生”はどうもそういう傾向があるように思うからです。
学校、教室と言う世界の中では自分が中心。 学校と言う一般社会とは違う世界。
限られた空間の中では頂点、一番偉い位置にいるわけだし、小学生・小さい子なら威圧で言うことをきくだろうし、もっと大きくなっても生殺与奪を握っているので刃向ってこないということを前提に自分の思うことを通す。
言えば言うことをきく、言えばすぐ動くものだという前提で言う。
だから言うことをきかない、ましてや刃向ってくるなんてことは論外なんでしょうね。
理解の範疇を超えているんでしょうね。
さて、こんなふうになるとカンヌ映画祭のことを改めて思い出してしまいます。
まずそれ自体が日本人の理解の範疇を超えている事だけど、自分の理解できないものに賞を与える それがすごいことだと思うんです。
何かを嗅ぎつける鋭い嗅覚があるのでしょうか。
理解できないものを攻撃 排除するか、自分は理解できないけれど まずそれを認めるか。
理解できない者・事柄、自分の意のままにならない者 すぐ言うとおりにしない者を攻撃する とはずいぶん違うなぁと感じた次第です。
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