2012年1月28日土曜日

Fさんの事、8月6日をキーワードに考えた 7の3  頼られる喜び

Fさんは
“人との距離の取り方がうまくない”と断りながら、たくさんのことを話してくれました。

私は
一方的に話すだけでは話しづらいのではないかと私自身のたくさんたくさん心につもりたまった特別なことを話しました。

 Fさんは「そんなこと!」と言わずに、立ち止まり聞く耳を持ってくれました。 

それで私は なんでも話せました。 恥ずかしがらずになんでも話せました。
 Fさんには、誰にでも話せることでないことも話せたんです。 
 こんな私は初めてです。

  私は、Fさんからの77日のEメールを目にしてから以降、何の裏付けもないんだけど、声をかけ続けていないと彼女がパタッと倒れてしまうんじゃないかと心配・不安になっていました。

実際そういう文面でしたよ。

  何通も何通もEメールをやり取りしてたくさんのことを聞きました。 

いつも会っている人(話している人)は好ましくなります。 縁が強くなります。 

「頼りにされる喜び」を実感しました

それが私に気力を満たし新たな一歩を踏み出させてくれました。



Fさんは
~母に、Wさんという太鼓で知り合った方が力になってくれていると話したら喜んでくれました。そして「人間は一人でも話ができる人がいてくれると生きていけるんだよ。」と言ってました。~ とEメールで話してくれました。

情景を共感しました。心が和み温かく幸せになりました。

2012年1月26日木曜日

悪魔さ払って、ヨイヤサ (3・11に関係して)


 岩手県 陸前高田市。

 例年なら家族総出でアワビ漁に忙しい年末も、船も漁具も津波で流された漁師の人たちにとっては生活のめどの立たない不安な年末そして年始となりました。

 そんな新年の仮設住宅を、陸前高田市・米崎地区の人たちで作っている「脇之沢保存会」の獅子舞が訪れました。

 米崎地域は津波にほとんどの家が流された所。獅子舞の衣装・道具もすべて流されてしまいました。

 そして、今回は大震災の後と言うことで舞を披露するかどうか悩んだ末の獅子舞でした。



 当日は、大人も子供も一緒になって「悪魔さ払って、ヨイヤサ」と掛け声をかけながら地域を歩きました。

 ある仮設住宅ではおばあさんが

払った、払ったぁ。あど何も(悪いことは)こねやがら(来ないから)大丈夫だ。

と、子どもたちに向かって声をかけていました。



 岩手県 陸前高田市の大坪市会議員の被災地からのリポートを削除修文。


このリポートの題材は2つあり、主題はこの獅子舞の話の方ではないようでしたが、私はこちらに感銘を受けました。

 文中の、おばあさんの子どもたちへの“想い・対応”に思いを馳せると胸が熱くなり目が潤んできます。

2012年1月24日火曜日

3・11 福島第一原発事故 呆れてものも言えない3つの出来事 (ほんとは言うけど)

  123日月曜日に明らかになり、扱い方に多少の相違はあるけれど、昨夜から今朝(24日)各種マスコミに取り上げられた“呆れた3つの事柄”。


一つ目

原子力災害対策本部が昨年311日に設置されて以降、計23回行われた会議すべての議事録が作成されていなかったと言うことが、災害対策本部の事務局をつとめる経済産業省原子力安全・保安院の報告で明らかに。

その理由について、森山善範原子力災害対策監は記者会見で「開催が急に決まるなど、事務的に対応が難しかったようだ」と釈明。


結局その程度なのよ。そもそも記録しようという発想がないんです。
 誰もなにも、ただ録音しておくだけもしなかったとは。
 それも23回もあったすべてで。

意図的に隠そうとしてとしかとれない。 



二つ目

地震 津波による電源喪失によって事故直後のデータが送られてきていなかったことが明らかに。

当初、適切にスピーディー(=放射能影響予測)の情報を公表しなかったから子どもたちへのヨウ素剤服用対応ができなかった 避難指示が出せなかったと批判されていたのに。(私自身は未確認だが、防衛省と外務省、そして海外には情報を流していたという話もある)

あの 公表しなかった のは何だったのか。当時の枝野官房長官の「心配させたくなかったから公表しなかった」発言は何だったのか。なにを材料に判断していたのか。



それが「実は電源がつながれていなくてERSSが作動していなかった。情報が届いていなかった。」との発表。

原因は、さかのぼること前年秋の、ERSS(注)と連結するメディアコンバーターの非常用電源との連結工事の際に、連結コードが短くて完了できないままになっていたため。(なんという理由!)

当該工事担当者・東京電力だけでなく公的機関のチェック担当も居たというのに。(担当はなにをチェックしていたの!)



三つ目

昨年7月に発表された政府試算の、最大電力需要に比べ9.2%不足するとしたとは反対の、最大6%の余裕があるとの試算が政府内にあったとことが明らかに。

原発を再開したいがために意図的に国民を不安な気持ちにさせたとしか言えません。



正確な情報を公表しないのも大問題。都合の悪い情報を意図的に隠すのはもっと大問題。ほんとに、この国、責任ある立場にいる人たちは一体全体どうなっているのか。

言葉を失う。



(注) ERSS=緊急時対策支援システム 国が原子力災害応急対策を実施するにあたり、必要となる事故進展予測を支援するために、電気事業者から送られてくる情報に基づき、事故の状態を監視し、専門的な知識データベースに基づいて事故の状態を判断し、その後の事故進展をコンピューターにより解析・予測するシステムとして開発したもの。


2012年1月22日日曜日

Fさんの事、8月6日をキーワードに考えた 7の2  大人として、要は自分が決意するかどうか

 Fさんからの4日のメールに「~ 母に話したら、土曜日、長岡の後に、ラフールを観に連れて行ってもらえることになりました。Wさんにも皆さんにも会えるのが楽しみです。 ~」とありました。
 
Fさんがそのように考えられるようにまでなったということを歓迎 喜びながらも私はその日から6日までの間、自分のこれまでの声に偽りがなかったか振り返り確かめ、自分の覚悟を確かめるようにこれからを想定し考えました。  
 
考えなくてもいいことまで 妄想 してしまったかもしれません。 
 
  Fさんの病気のこと。
  私があと何年働きFさんが働かなくても大丈夫か。
  経済的なこと、生活スタイル。 どう暮らしていこうか、家庭は家族は。 
  将来は。ああしようこうしよう。
  私だって、これから先のわからないことを考えると“不安”になることもたくさんあるし、考えることは多くさんあります。
 
 その時はいろいろ考えすぎたと分かります。後で思えばだけど。


 でも 一番考えたのは、学校でたての 何もわからない男じゃないんだから 大人の男なんだから お母さんに「ちゃんと考えてお付き合いします」と伝えておいた方がいいだろうということ。

自分に問いました。 自分の気持ちを今一度確かめました。
  ほんとに良いのか?! 病気の事。辞めると言ったけどタバコは大丈夫か?

たくさんのことが頭に浮かびたくさん考えたけど、要は自分の決断。自分が決意するかどうかだと思い、自分を確かめました。
 


 そして迎えた6日当日。 
  午前は巻でヨガ、午後は加茂でサバールのワークショップ。朝からいろんな催しのある日でした。
  この慌ただしさ、良かったのか悪かったのか。
 だけど、静かなところでそればっかりになればいい結論が出るとは限りませんものね。

こうしてライブの夜を迎えたのです。

クリスチャンが仲立ちをできたら


部屋にエアコンを一台付けるだけなのに、このところけっこう大変でした。

引越ししないし、整理して捨てるのがへたなうえに置いておく場所があるものだから“物”、特に紙物がたくさんあって。

で、電気工事の人エアコンを設置する人も来ることだし多少ではあるけれど掃除(整理)をしました。整理の途中の乱雑さもあるような気もするけど、切抜きしようと保存しておいた(古)新聞の山がいくらか低く小さくなったかな?!

とにかくエアコンのおかげで部屋は快適。考え願っていた以上の変化に、こんなことなら(自虐的な)半分遊びのつもりではあったけど我慢なんかしないで早くつければよかったとほんとに思います。

今回整理している中で、ヤッパリこれからもとっておいた方がいいものもたくさんありました。

資料・情報としての新聞や各種冊子もたくさんあったけど、中でも手にした時思わずびっくりし続いて感謝したのが昔に書き留めていたもの。

  その一つを



LOVE」の反対は「無関心」

  マザー・テレサ


「殺戮に直面したら―傍観も加勢と同じだ。」

   映画・ノー・マンズ・ランド より


「最初共産主義者が連れ去られる時

 私は共産主義者じゃないからと何もしなかった。

 次に社会主義者が連れ去られる時

 私は社会主義者じゃないからと何もしなかった。

 次に自由主義者や無神論者が連れ去られる時も

 私は何もしなかった。

 最後にクリスチャンである私が連れて行かれる時

 もう周りには反対する人は誰もいなかった。」

      マルチン・ニーメラー



 なぜ私が、こんなことを言うのか するのか かかわるのか。

それは、積極的だからではなく、怖いからです。

 私にとってよくないこと、願に反することを強いられる時、

一人ぼっちにはなりたくないからです。




 いろいろあったけど私 ぶれてないわ

1-15-40  路地で鉄製の枕木発見! これホント。


食堂の格子付の窓越しに、さっき歩いてきた線路を列車が通っているのが見えます。

列車はゆっくりとした速度で通過していきます。なにせお店ギリギリだし、人も歩いていた線路でしたから。



この線路。さっき通った時、人力で補修作業をしている人たちがいました。それを目にして、作業の進め方も違うなぁと思ったけど、服装がいろいろなのに一番日本との違いを感じました。


ところで。この路線、昨年は2度脱線事故があったそうです。

2年前の、大統領選に起因する暴動の時にはレールが外されたりもしたそうです。

その時のものかどうかわからないけれど、路地で鉄製の枕木を見ました。

よくもまあこんな所まで! と思ったけど、これホント。

2012年1月19日木曜日

ーおもろい嫁はんですー

情景が目に浮かび、ほほえましくも思わずニヤッとしてしまい、続いてうらやましくなる二人のお話です。

 




最近我が家では災難続きでした。


ー火攻めの章

私が入浴中に妻の悲鳴が聞こえて、裸で出てみると家の中は煙だらけ。

妻の髪は逆立っていました。

事の緊急性を察知した私は、濡れたまま下着を身につけ廊下に走り、消火器を持って噴射しました。

安心したのもつかの間、後かたづけが大変でとんだ一日になりました。

火災の原因は秋刀魚の油でした。


ー水攻めの章

私が自室で本を読んでいると、妻の悲鳴が聞こえて台所に行ってみると排水口が詰まってしまい、水が流れなくなり、妻は髪の毛が逆立っていました。

私にとっては、掛買のない経験を与えてくれる妻に、いつも感謝しています(おもろい嫁はんです)。


全日本民医連共済組合 共済だより20041/1第284号 読者のたよりページより

2012年1月18日水曜日

Fさんの事、8月6日をキーワードに考えた 7の1   新しいストーリーの始まった晩

映画は大好き。

だけど、この私自身に映画の主人公と同じことが起きるとは。

わずか31日間で、一人の女性が私にとって特別な人になり。

わずか31日間で、こんなに 大切なことを考えるようになるとは。



86日土曜の夜

「北の音と東の風」東インド古典舞踊・オリッシー・ダンス の第一人者 ラフール・アチャリャさんの来日公演

 Fさんと 頻繁にEメールをやりとりするようになってからこの晩初めて会います。


 

ドキッ としました。 

出合ったとたん、Fさんが私の右手を包みこむように自分の手を重ね、続いて私の身体に手を回してきたんです。

生身の人(女性)の身体の重さを感じました。

私も彼女の背に手を回しました。 自然に。

“人(女性)”の重さ、こちらが加えた力を押し返してくる身体の感触。



第一部のインド音楽の演奏が終わり いよいよラフールさんのダンス。

でもFさんは楽しみにしていたラフール・アチャリアのダンスを見ることもなく畳の上に敷かれた 座布団に身を横たえていました。

 


このところの具合の悪さに対して、今日の診察で別の薬が処方され服薬。

その反応でつらそう。 私もその様子でわかりました。

でもそれほどまでに大変だとはわからなかったのです。

辛そうだけど、対処できる人だとも思っていたのです。



もちろん今夜のダンスを楽しみにしてきたので、ダンスを観たいという気持ちはありました。

でもその気持ち以上に、つらそうなFさんのことが気になって仕方がありません。

いっそ直接手をだした方が気は楽でしたけど躊躇してしまいました。

お母さんの手前、照れもあったと思います。

たった今告白したばかりなのに、そんなにすぐ親みたいなことはできないと思ってしまったのです。



この夜Fさんの口から初めて正式な病名を聴きました。  

その病名は、前聴いていた○病ではなく○○性障害という名前。 

だから今更、という気持ちだったけれど 思ってもみない展開になったことは確か。



こうしてこの夜 新しいリールが回り始めました 

一本の映画「素晴らしい大戦争」DVDが思い出させた昔の情景・グランド劇場

 20世紀後半の映画作品がこのところ立て続けに初DVD化されています。それも私が好むタイプの。

 おそらくは、たくさん初DVD化されている作品の中に、たまたま私の観たい作品が続いただけなんだろうけど。いずれにしても嬉しい。

 先日の「バベットの晩餐会」も期待どおりすごく良かったし、このたび入手した「すばらしい大戦争」もそう。

 この作品、1970年の封切り当時、音楽(歌)とすごく印象的なシーンがテレビの情報番組で紹介され、観たい!と思った一本なんです。



 1970年頃というと、新潟にはグランド劇場と言う2階席もある大きな封切り館がありました。
 この劇場がどの作品をかけるかが、ここから北の上映作品を決めるとまで言われた劇場です。
 劇場は、外にチケット売場の窓口があり、ドアを通って中に入ったところでモギリの女性にチケットを切ってもらうとそこは天の高いロビー。
 正面は一階席の入り口。右は2階へつながる階段。左には映画パンフやお菓子・飲み物のお店。

 当時は、封切り館だけでもほかに、東宝 東映 松竹(邦画系・洋画系2館) 大映 日活と大きい映画館がいくつもあったんですけどこの作品はかからなかったんですよ。
 そんなわけで、通してこの作品を観るのはこのたびが初めて。

 
 

 個人的にも、社会的にもさまざまな軋轢も進歩もあった60年代。(たとえば公民権運動。)たくさんの困難 混乱があったけれど、力を合わせ行動すれば何かが変わる、と確信できた時代でした。
 でも、映画にもなった1969年の「ウッドストック」のあと1970年代に入ったら、社会全体が不思議なくらい一気に熱が冷めてしまったような感じがしました。実はベトナムといいチリといいいろんなことがあったんだけど、60年代の揺り戻しの時期だったのかもしれません。


 さて。
 映画「すばらしい大戦争」。元々は舞台作品だったということ、後に監督としても一流になったリチャード・アッテンボッローの監督第一回作品というのも今回初めて知りました。
 映画の作りは、元は舞台作品、初めて監督する、そしてミュージカルと言うのが大きく影響していたように思いました。

 動き(限られたスペースの舞台でも使える)展開(時間 ・場所)比喩(暗示させる)などで、舞台を観ているかのようなところ、映画の作り が良くも悪くも両方取り入れられていました。

 作品の出来・感じとしては「ヘアー」を思い起こしてもらうとイメージがつかめるかな。さすがに重厚さはこちらのほうがありますけど。

 ずっと印象に残っていたあのシーンは一番最後にでてきました。途中、真っ白な十字架を満載した荷車が出てきて ここか!と思ったんだけど、結局一番最後でした。
 どこまで続くのかという広い広い緑の丘。そこに整然とならぶ白い十字架。
 ラスト。カメラは空高く引き、緑と白の対比が視覚的にはきれいとさえ見えます。

 だけど、今回本編をずっと観た後だと、それだけ人が命を落としたんだなあと、昔このシーンを観たときとは異なる思いで観終わりました。

 テーマも描き方も少し重い感じなので、楽しく何度も観るタイプの映画ではありませんでした。だから新潟に来なかったんだろうなと今更ですが納得。

 でも見応えありました。