2016年12月29日木曜日

現閣僚・稲田防衛省の靖国神社参拝


一体どこをどうはたいたらこういう発想が出てくるのだろう。

29日朝の現閣僚・稲田防衛省の靖国神社参拝。つい二日前、第2次世界大戦・アメリカとの直接の闘いの発端となった真珠湾(攻撃)での“慰霊”訪問に安倍首相とともに訪米したばかりなのに(2016.12.27)

相も変わらず注目させておいて中身のない言動、安倍首相による真珠湾訪問は反省でも謝罪でもなく慰霊の訪問との由。

そこに同行していた稲田朋美防衛相の帰国直後の靖国神社参拝。

元々中身のない訪問だったけれど、今度はその訪問自体何だったのかと疑問符をつけさせてしまった。

2016年12月28日水曜日

“国際豆年”


2016年も終わるというこの日にというのもなんですが、今年は国連制定による“国際豆年”なんだそうです。

そのことを扱った記事の中に 豆の成分や選び方 保存方法そして豆の種類・分類の表を見つけ、忘れないようにいつか扱おうと思っていました。 そう思っていながらタイミングを逃してしまってここまで来てしまったというわけです。こういうのは知識ということで言えばいつであろうと無駄ではありませんけど、どうせなら2016年うちのほうがいいでしょうから今日紹介します。

2016年12月26日月曜日

自主 ではなく 独特 の日本


このたびの南スーダンへの武器取引禁止の国連安保理決議に日本が反対したのにはびっくりしました。(“核”禁止条約の時もびっくりしたけど)

南スーダンの内戦、ここまで拡大してしまうと簡単に止められるレベルではないとわかります。でも人々の恐怖からくる疑心暗鬼を取り除く困難さよりも、武器の供給を止めるほうがより早く具体的な結果が出るのではないでしょうか。それを変な論拠で。



日本はなんでもアメリカ(合衆国)の言うことを聴く。日本のアメリカ追従・盲従は今の沖縄を見るまでもなく屈辱的。 まさに米軍は占領軍そのものの振る舞い、日本は戦後70年以上たった今でも実質アメリカに占領されたまま。 



イラク戦争の時国連の意に反しての有志連合の名による実質アメリカによる戦争をいち早く支持した日本。結局その根拠がでっち上げだったことが明白になってからも日本では責任の追及がなされないままうやむやになったまま。(UKは時の首相の責任が問われた)

言われるがまま 何の主張もない 卑屈なほど気に入られようとしているそしてだれも責任を取らない。これで自立した独立国なのか と憤りを感じるほど。



それが どうも違うのかもしれないと思いだしたのは、現ロシアによるウクライナ・クリミヤ半島を力で奪い取ったことに対して欧米各国が協調して制裁行動をとったのに、それに加わらず、今こそ日本との関係を強めるチャンスと“独自”行動しているのを見てから。 



アメリカ追従に見える、だけどただそれだけじゃないようです。世界の国々が協調して行動するときにそれに加わわらない。 国連決議 対ロシア などでは アメリカと異なる行動もする。

アメリカ合衆国よりも優れていると評価されている“何時でも どこでも”を国民に保証している医療制度を骨抜きにすることも、日本を守り誇りでもある平和憲法 “核”の扱いでも、沖縄を米軍に差し出すふるまいでも、ただ屈服させられていたわけではなくて自分が そうしたかったんだ、話し合いに参加し結果 協調して行動するんではなくていっしょにやりたくないんだ自分勝手にやりたかっただけなんだという風に思えてきました。

日本の場合は他からの独自性を持っているのではなく、日本独特の発想・回路を持つ国なんだと思えてきました。

2016年12月25日日曜日

Merry Christmas 2016


Merry Christmas 

2016年 今年もクリスマスを迎えることができたことを感謝します。


内憂外患 の種は尽きませんが神様のお導きでいつまでも同じでないことも感じています。



個人的には、あちこちに出かけて新しいことをたくさん吸収できた一年でした。どちらが最初かはわかりませんが、相乗効果でいろいろ動けるようになったということでしょう。辛いこともありましたけど総じて大過なく送ることのできた一年だったと感謝しています。

昨年は仕事で顔を出せなかった一年最後のヨガでお茶とお菓子をいただいて楽しいひと時を持てました。久しく連絡・行き来のなかった人とも会ったり連絡を取り合ったりできました。

 何より家族が増え家庭になった、ハウスがホームに変わることができたということが感謝ですね。 これからは映画のように「家族のところに帰るぞ!」と言って困難を乗り越えていかれるんですね。

2016年12月19日月曜日

F3 16-4-19 両替したお金の使い出 物価 1/6


その道の専門家でない人はこんな感覚になるのでしょうか?

一万円をペソにすると(これまでの3回では毎回違っていましたがここでは仮に)4,200ペソになる、万→千なんて聞くとお金が減ったような・円が弱いような感覚になってしまいました。 このことと、その両替したお金で実際のところどれだけの物が買えるのか・価値があるのかはまた別のことなんですけどね。
じゃあ実際はどうだったのかを羅列ですけれど私が見聞きしたことで書いてみます。



・ガス
 泊めてもらったお宅の熱源・煮炊きはプロパンガスでした。
ケニア・ナイロビだと最初にボンベを買うんだったか相当分を支払うんだったかしてからでしたが、こちらはそのあたりがどうなっているかまでは確かめられませんでした。
料金は10300ペソ。連絡をすると、側車付きのバイクで配達してくれました。

・上水道
 泊めてもらったお宅には上水道がありました。でも飲料としては適していないようで、飲み水は別に20ℓのポリタンクで買っていました。自分でも買いにも行っていましたが、これも連絡すると側車付きのバイクで配達してくれました。

・下水
 太い本管があり大規模な下水処理場があるのかまではわかりませんでした。
家の前のコンクリート敷きの道は両端に向かって少し傾斜がつけられ端が少し窪められていました。そのところどころに小さな穴があけられていて雨水はそこに流れ込むというようになっていました。でも穴は小さいし取り外しのできる蓋があるわけでもないので詰まったりしたらどうなるのか心配になりました。
トイレや台所の生活雑排水の流れていく先までの確認はできませんでしたが、近くに流れていったものが溜まっている所や臭いはしませんでした。

・トイレ
 水洗式でした。と言ってもタンクについているレバーを動かすなどして水を流すのではなく、脇に置かれた大きなバケツにためられた水を手桶で汲み便器に流す式でした。壁にパイプは設置されているんだけど水は来ていないのかな?
便座はついていませんでした。
用を足した後はトイレットペーパーを使うのではなく手桶で水を汲み手で洗っていました。世界にはいろいろなやり方があるからこれはこれかな。

・電化製品
 お店を見たところでは品ぞろえにそん色は感じませんでした。
総じて安いような感じがしました。例えば冷蔵庫は日本なら普及品クラスだと円換算で2から3分の一、それよりも少しグレードの上のものでも日本の2から34分の一くらいかな。現地の人の月収から考えてみると十分に高額商品のようですが。でも冷蔵庫は、そもそも日本のように幾日か分をまとめて買っておくとか残ったものを痛まないようにして取っておくというようなものではなく、その日の分をその都度買いに行くという生活スタイルがまだまだ残っているような感じだから私が思うほどにはほしい・必要とは思わないのかもしれません。
泊めてもらったお宅のテレビはソニーのロゴのついている大きい液晶でした。コンポーネントステレオもありました。これもソニー、と思ったら似た名前の別メーカーでした。カラオケもできるもののようです。カラオケは好きみたいです。音はカーステレオもそうだけど、とにかく低音のブーストがすごい。私からするとバランスが悪いと思うんだけど、こういう音が好きみたいです。鳴らすときは夜でもお構いなしにすごいボリューム。
エアコンも窓枠にはめるタイプに物がたくさん並べられていました。そして安い。道から見ていると、設置してあるお宅が結構ありました。ただし泊めてもらったお宅もそうだけれど、電気代が高くてそう稼働していません。
炊飯器や扇風機は安い値段からたくさんありました。ただし圧力式となると急に高くなっていました。
メーカーは日本そしてフィリップスもありましたが、圧倒的に多いのは中国製。 ケニアに行った時もそうだけど、色遣いなどで良くも悪くもすぐ中国製とわかります。韓国製もあるんだけど評判は今一つのようでした。

2016年12月11日日曜日

F3 16-4-16 正直為替のことはよくわからないけれど


  

 
  フィリピンにはこれまで3回行きました。その都度日本円をフィリピンペソに両替したわけですが毎回為替の率が異なっていました。 わかりやすいように1万円単位で比べると、一回目201510月は3,900を少し下回っていました。その時の印象は、フィリピンペソって強いんだなぁ。

2回目は2016年の3月。この時は4,200ちょっとでした。3回目は4,400くらい。正直為替のことはよくわからないけれど、これって日本の円がフィリピンペソに対して強くなってきているという理解でいいんでしょうか。

 

 日本の会社に勤め日本円で給与をもらいそして支払う暮らしをしていると、そんな実感は全然ないのですけれど。 目減りしていく賃金・雇用不安、悪くなる一方の医療・教育・年金 それら社会不安に対して安全弁として不十分な各種社会保障で、今にも将来に対しても不安は増すばかりなのですから。

 でも対外的には、政治・政策的にも企業業績 技術開発でも何も問題なし将来はバラ色と見えているのでしょうか。国と国との関係でいうとこういうことになっているという事、そこから関係を考えてしまいました。

2016年12月6日火曜日

安倍日本国首相とアメリカの実業家・不動産会社会長兼社長ドナルド・トランプ氏


マッドアマノさん作  相変わらずさえてますねぇ
これで「日本は向こうからすり寄ってくる ほっといても大丈夫だ」と思われたことでしょう。 何って “私的な訪問” と言いながら政府専用機を使った安倍(日本国)首相のアメリカ合衆国の民間実業家ドナルド・トランプ氏(次期大統領予定)との会談。 会談の中味 手続き・進め方 様々な指摘がされているけれど、安倍首相本人は「トランプ氏は信頼できる」 とか 「素晴らしい友情」 とか得意満面の体。



 ところで、今みんなが一生懸命情報を集めている最中なんだろうと思うけれど、その中でもいち早くトランプ氏を支持 評価している顔ぶれを見てみると右翼でありナショナリズムの団体・政党・代表。ネオナチや様々な差別主義者。国でいうとこれまで人権問題で指摘を受け、国際関係でも物議をかもしているロシアのプーチン大統領と中国の習近平国家主席。  トランプ氏はどういう人なのか、大統領としての実際の政策は年明け就任後からということになるわけだけれども、これまでの様々な言動をみて支持しているこれらの顔ぶれを見てみると先行き暗澹たる思いになってしまいます。 で、安倍首相も同様に支持しているわけですからねぇ。 わかるでしょ。 ま安倍首相の場合は、やっていること言っていること、自分でも言っていますけれど元々ナショナリストですから驚くことではなかったのかもしれませんが。

2016年12月5日月曜日

クール・ジャパン≒ 賭博


このたび自民党・日本維新の会 他によって強硬可決された別名 カジノ法案。安倍首相は 今年2,000万人を超えた訪日観光客を2020年には4,000万にする。その起爆剤にする、観光立国の重要な柱だと言っています。

2,000万人を超えた訪日観光客。日本の伝統文化、現代の文化、そして技術立国としての日本を世界に発信し、もとは若者の隠語から始まり今はかっこいいの代名詞にもなっている“クール”を持ってきたクール・ジャパンもすっかり耳になじんだところへと言うかそれなのにと言うかこのたびの国際会議場・宿泊・カジノをまとめて立地するIR法案。 “カジノ” 確かにきらびやか 着飾った男女、でもそれって“クール”なこと?  何なの!

日本文化(伝統的・今)を紹介・知り体験してもらう。あるいは技術的なこと、芸術的なこと自然。日本文化、技術・芸術を支援するとか紹介するとかという事ではなく賭博。 全然かっこよくない・かっこいいと思わない。
日本の経済を立て直そう2020年には4000万人を目指すと言いながらこの程度の考えなんて。これまでの様々な事例から、このような実体のないものは仮に一時的にプラスになってもだんだん下降する。こういう嗜好性の強いものは、次から次へと新たな刺激策を追加していかないとじり貧になる、とのことです。マイナス面として一番懸念されるギャンブル依存症対策はこれから考えるんですって! もともと賭博が成り立つのは、賭博をする人が所持金を負けて取られることで成り立ってい居るわけで儲かるのは胴元だけ、これで国民の生活がよくはならないでしょう!

2016年12月2日金曜日

一つ勉強になりました


 
相手の名前がちゃんと記載されているだけでなく、これまでに至るすべてが必要。



今夜の(スカイプ)PCモニターに映る彼女はいつもに増していい表情。

私によく見えるようにか顔の前で顔写真付きの証明書(?)をこちらに向けています。 今一つピントが甘くて字が判読できないので何なのか聴いてみたら、日本でいうところの戸籍謄本にあたるものだそうです。これで名前(苗字)を変えたパスポートも近々できるそうです。 やっと! と正直なところ思ったけれど、やっぱりうれしい。彼女がうれしそうな表情をしているのがほんとによくわかります。だってこれまで長かったもの。

どうしてこんなに時間がかかったのか? だって結婚したのは4月ですよ、それが11月も終わりになってやっとなんですもの。私の方は在留許可申請の手続き彼女の方は名前(苗字)を新しくしたパスポートの手続きを進めていました。それがなかなか進まない。聴けば今年大統領が変わってそれで時間がかかっているとの由。それでも何度かのやり取りの後1012日にできると聞かされ楽しみに待っていました。それが10月はだめで11月にやっとだったんですから。



聞かされていた「大統領が変わって時間がかかっている」もあったのかもしれません。でも一番は正しい情報が伝わらなかったがその原因とわかりました。

つまりこういう事です。

私はフィリピンでも、式を挙げその旨届け出れば終わるものだと思っていました。だってそれで出してもらった証明書で日本での戸籍の手続きは完了したんですもの。

 帰国する前に言われました「この証明書で手続きをして、(日本の)戸籍謄本と住民票をすぐ送ってください。」と。 ここが実は取り違えたところだったのです。

 実は私これまでに結婚と離婚を経験しています。そしてこの間の転居・書式変更によって、今居住している行政区での戸籍謄本に載っていなかったのです。確かに手続きを終え名前が載っている記載内容になっていれば足りるものだとばかり思っていたのです。

 もちろんそれは当然のことなんでしょうけど、前に結婚していたことそしてちゃんと離婚の手続きがされているという一連の流れがわかるものが必要だったのです。すぐ前住んで居た行政区の戸籍謄本も取り現在のものと合わせて送り直しました。それで一気にというかやっとというかあちらの手続きが進んだというわけです。

 彼女にはちゃんと話しましたので知っていることとはいえ、前のこと(離婚)が載っていない戸籍謄本を手にして正直なところ安堵の思いでした、ちゃんと彼女のことは記載されているわけだしそれで足りると思っていたのです。だけどそこが違っていたというわけです。 

つまり “相手の名前がちゃんと記載されているだけでなく、一連のここに至るすべてが必要” という事だったわけです。 

この私の経験が誰かの役に立つかもしれないと思って書きました。 

国が変われば手続きも様々、勉強になりました。

2016年11月30日水曜日

日本の私たちももっと意思表示を


私もその一人なんだけど、日本の人はおとなしすぎ。最近だけでも平和・戦争に関すること教育 医療 年金 雇用 不公平な税制 食も農も通信も交通も・・・沖縄の辺野古も高江も原発も   この状況では 現在にも将来にも希望がありません。

なのに個人的に 「悪くなる → じゃどう準備しよう」 なんだから。もちろん力を合わせ反対の行動はあります。でも、悪影響を受ける人のほうが多い事柄がなぜその意向に反して行われてしまうのか、個人の意思表示と共同がもっともっとあっていいと思うのです。



お隣の国 韓国ソウル特別市。抗議に集まった人の数150万という数字は大きすぎてピンとこないほどです。

抗議する 人 人 人の写真を見ていて あ~と気づきました。その場に立った光化門につながるあの広い公園=光化門広場。全部で何車線だったのだろう世宗大通り。その片側車線分だけでもこちらの駅前の広い道より十分幅の広い道そして広い広場、そこがいっぱいなんです。広場の大きさ道路も併せての広さは覚えています、韓国の人たちの抗議の意思の広がり強さがだいぶわかりました。



 確かに今回の韓国、国の仕組みとしての問題 政治 経済 財閥いろんな問題があるのは確かだけど、日本だってどれだけ他人のことを言えるでしょうか 似たようなもの。  そのうえで大きく違うのが、みんなが自分の思い・考えを行動に表すということでしょうか。

意思表示、個人でも集団でももちろん何もしていないわけではありません。力関係も変わってきました。まさに剣が峰、せめぎあうところまで追いつめていると思います。

これまでかかわってきた人たちの輪を広げて、これまでかかわっていなかった人もやめさせたいこと いやなことにはいやと日本の私たちも抗議の意思をはっきり示すときです。

2016年11月24日木曜日

F1 15-10-23 道路事情・運転事情



都合3度フィリピンに行ってみたもののじかに見て回ったのは首都マニラとその近郊。 ですから、広いフィリピンの限られたところに限定というわけですが、道路は細い裏道も片側6車線もある幹線もとにかく車が多いひっきりなしに車が走っていました。どこから来たのかどこへ行くのかわからないけれど歩いている人も多く、新旧大小のバスも結構走っているけれどそれ以上にぎっしり人を乗せた様々なジープニーが走り回っています。

因みに人口密度は日本と大差ないようですがこの“混雑”は、近くで見ていると混乱・混沌も含めて国の勢いというものを感じさせるものでした。

この混雑は、メトロマニラとそこに密接している都市部に主要産業をはじめ多くが集中しているからかと思います。そしてそれに加えて、道路網が街の中心部をバイパスするような循環型の道になっていなくて太い幹線に一度すべての車が流れ込むようになっているのもすごい渋滞の原因だと思います。



この渋滞の中に身を置いていると、ここでは運転するなんて考えない方がいいなぁと思います。運転が好きな私にそう思わせるほど渋滞がすざましい。

細い道は途切れることなく車両 特にトライシクルが続き、幹線は隙間なく車が並び車線なんか有ってないようなもの。 3車線なら横に4台 4車線なら横に6台も車が並んで先を目指すという感じ。

車でぎっしりの道は少しのスペースでもあると向きを変えどんどん鼻先を入れていくから、何度身を固くし載せてもらっている私にはあるはずもないブレーキペダルを踏んだことでしょうか。渋滞の中グイ~ンと進路を変える「あぁ~ 」と思わず口に出るほどだったけれど、すごい渋滞の中お互いさまとでもいうのでしょうか結構譲っているというか、スピードが出せない状況の中だからか思いのほか進路変更ができていました。クラクションがあまり聞こえないのは意外かな。

この車線数以上に車が並ぶ以上にびっくりしたのは、自分の車線側が混んでいるからって対抗車線にはみ出して、つまり私の方に向かって走って来た時。もうなんでもありという感じ。 でも交通事故は見かけませんでした。

横浜いじめ事件と共通する鶴保沖縄担当相の意識


もとは沖縄県外・大阪から動員された機動隊員の沖縄東村高江のヘリパット建設に対する示威行動を行っていた人々に対する“土人”発言がもとでした。この発言に対しては同じ大阪の松井知事の「差別発言には当たらない」という発言もあったけれど、菅官房長官をはじめ多くは善くない発言という認識でした

ところが、こともあろうに沖縄県を担当する鶴保沖縄担当相が沖縄の人たちを傷つけた土人発言を追認してしまったのです。これに対しては、沖縄を担当する大臣なのにという驚きと、出るわ出るわ鶴保議員のこれまでの問題のある言動が、それで大臣としてはもちろん人間としてもその資質が問題ありとなってしまいました。本当にそう思っているという事が衆人の知るところとなってしまったわけです。

そこへ持ってきて安倍内閣の見解として「鶴保沖縄担当相の発言は差別発言には当たらない」という声明。これを言ったらこれをしたらどうなるという想像力が非常に弱い安倍首相の内閣その内閣の一員だからなぁとこの流れを納得してしまいました。



問題が明らかになると飛びついてすぐまた次のセンセーショナルな話題に移るという事を繰り返しているワイドショーにおいてさえもまだ取り上げられている横浜市・教育委員会・学校による福島第1原発事故後福島から避難してきた小学生いじめ事件。

本人からの訴えも家族からの相談も警察からの報告にさへもちゃんと対応しないでとうとう学校に行けなくなった問題。150万円にもおよんでしまったお金の要求。小学生がこんな大金にかかわることは誰が考えても普通ではないとわかること。だからこそ親からも警察からも話があったんだろうに。

一番は本人からの訴え。いじめをした側がどんなに「おごってもらっただけ」と言いつくろっても本人がいじめられていると訴えているんだからこれをこそ聴くべきことでしょう。

  いじめている側 数万円しか確認できなかったと結局いじめではないと結論付けた学校や教育委員会も、まず本人の声を聴き気持ちに沿うべきだったと思います。



いつもながら前置きが長くなってしまいました。

このたびの鶴保沖縄担当大臣の「(機動隊員による沖縄の人に対する)土人発言は差別発言ではない」という見解は、福島から避難してきたという事でいじめの対象になってしまった小学生の問題と同じだと思います。
   言われた側が差別発言と感じ された側がいじめられたと感じている、それがすべてです。言った側が差別発言ではない した側がいじめのつもりではなかったなんて言い逃れできる立場ではないんです。
本来なら沖縄担当大臣の立場以前に人として相手の立場に立つ・想像すべきことではありますが、少なくともその言葉を投げつけられた沖縄の人たちが差別発言だと言っている時点からでも気づくべきですね。

2016年11月23日水曜日

案じてくれる人がいるということはありがたいことです


1122日早朝の地震(2016)はここでも震度3を記録し、1たまに2くらいということが多かったので久しぶりに 揺れたなぁと感じました。

 その日私は早番で、5時過ぎに起きてお風呂洗顔お昼のお弁当を作って朝のニュースを見ながら朝食をまさに食べ始めたところでした。6時、アナウンサーはお早うございますの挨拶とともにこれからの放送のことを話し始めたその時緊急地震速報がなんとも言えない音を響かせました。外はまだ真っ暗。

 腰を下ろしているのになんだかフワァーと身体が動き妙な心持。すこーし上に持ち上げられるような感じもしました。テレビの画面に掲示された現在時刻では61分でした。それからは地震のニュース一色。

 この地震のことは、ただ揺れただけでなく津波の警報が続けて出されたのでみんなは11311日の東日本大震災のこと原発事故(事件)・津波のことを思い出しました。それは日本に暮らす私たちだけでなく世界中でも同じように受け取られ伝えられたようです。



 夜。自分の携帯をだめにしてしまって必要な時だけおばさんのを借りて連絡を取り合っている彼女からテレビ電話が入りました。そんな事情から私がかけることがほとんどで彼女のほうからというのはほんとに珍しいことなので何事かと思ったら「ニュースで今朝の地震と津波のことを聴き心配だったので」との由。

 飛行機で4時間半前後 距離でも約3,000㎞も離れてはいるけれど思いは一気に縮まりました。たとえ遠く離れていても、私のことを案じてくれている人がいるということはありがたいことです。

2016年11月21日月曜日

F1 15-10-21 物の値段 円に換算してみるんだけど




物の値段、日本と同じくらいかなぁと感じるもの割安と思うものさまざま。日本で買うより安いけれど、こちらの人の平均的な月収に照らし合わせてみるとそう気軽には手が出せないなぁと気づくものもだんだんわかってきました。 



知らないという事は怖いもの。当地での金額を一度日本・円に換算して判断してみるんですけど生活習慣の違いもあるし社会環境の違いもあるし置き換えられないときもあります。最初の時、高いんだなぁと思いながらも手持ちのお金だけでは足りなくて急きょATMのクレジットでお金を用立てて払ったこともありました。

この時はこういういきさつでした。一晩中乗る長距離バスの片道料金が7,000ペソというんです。ずいぶん高いんだなぁと思いながらも、私のために仕事を休んでまでして来てくれたんだからと支払ったんです。片道7,000ペソ。日本でいえば2万円近い金額。もちろん片道2万、もっと高い料金だってあります、いろいろと。 交通機関の種類や席の格によっても高低はありますが、素直に考えればまずは遠くなるほど料金も高くなるという事。ですからこの7,000ペソという数字から考えると「住んでいるところはすごく遠いところなんだなぁ」と取ったというわけです。

片道7,000往復で14,000。加えて、一晩中だから途中の食事や飲み物代も必要というし。その人数分を封筒に入れて渡したらびっくりしたような困った妙な顔をする。「これは多すぎると」言うのです。実は7,000ではなくて700だったんです。一人分で片道7007,000では相当違います。通訳してくれた人の取り違いだったというわけです。思うとちょっと怖いお話でした。

2016年11月19日土曜日

F3 16-4-16  街の“両替商”




外国に行くと日本のお金(円)はそのままでは使えません(USドルは小さいお店でも露店のようなところでも使える!)から現地通貨(今回はフィリピンペソ)に両替をしなくちゃなりません。案内してもらって市中の両替店に行きました。実は、当座の分だけでもと思って空港(併設されている銀行)で変えようと思ったのですが率が悪いという事で。

行った所は街の“両替商”。 行った先には通りに面して両替商が何軒も。もっと言うなら隣り合って並んでる感じで、こんなにあって成り立つの?って思うほど。その近さ多さ加減 は、いつも使うお店のあたりの道がぎっしりの車でとても止められず「じゃぁ別の所へ」となり「どこまで行くのかなぁ」と初めての街 時間も遅くなったし少し心配に思っていたら道を少し走った所にすぐありました。このあたりそういう地区なのかもしれません。


日本にいるままだとその必要性も存在もピンとこないんだけど、ここではこんなに身近に“両替(商)が垣根低くあることに、国際化や働き方における違いを感じさせます。

2016年11月15日火曜日

“嘉陽のおじい” が亡くなりました


“嘉陽のおじい” が亡くなりました。(2016113日)

初めて沖縄・辺野古を訪れた2012年にお会いし 「私の今の願いは、来年またみんなとここで勝利を喜びあいたいということです。」との声を聴くことができました。(その時の模様は ラベル・沖縄平和ツアー/辺野古 オジーの願い  201299

94才だったそうです。

今の オール沖縄の基となった辺野古の区民達で立ち上げた(1997)「命を守る会」の創立時のメンバーで、最後は顧問を務めていたそうです。

最後まで貫いた運動への思いは「戦後の食糧難の時辺野古の海の海産物で無数の人が救われた。この海は命を育み、沖を通る船の旅人の無事を祈る聖地。この海を埋めて人を殺す基地にしてはダメだ。」という強い思い・体験だったようです。

ご冥福をお祈りします。

2016年11月13日日曜日

最初のパスポート




日本最初のパスポート・旅券は、江戸幕府が海外渡航の禁を解いた後の1866年に日本外国事務局から発行された。

 ちなみに第1号は、パリ万国博覧会に向かう18名からなる曲芸団・日本帝国一座の団長隅田川浪五郎とみられるとの由

日本の手話2種




・日本手話

日本語とは異なる独自の体系を持つ言語。聾者が 
日常生活でよく使っている。



・日本語対応手話
    日本語を話しながら、手話の単語を並べていくも
    の。日本語を話す=音声と手の動作=手話を同時
    に使うもの。

核兵器禁止条約 地球温暖化対策・COP22


今更とも思いましたけど、地球温暖化対策・COP22の初会合がつい先日行われたばかりだし核兵器禁止条約に日本が反対したという事でも意思表示はしておきたいと思って。

 

このたびの国連における核兵器禁止条約に、日本がはっきり反対という報に接して、いつもあいまいな態度で来ていた日本が!とびっくりしました。

核爆弾による惨禍を経験した日本こそ核兵器禁止の先導役になるべき国なのにまさか核保有国とともに核兵器禁止条約反対に回るとは。アメリカ(合衆国)追従も極まれり。ここまで来たか!と暗澹たる思いになりました。




地球温暖化対策・COP22 に関しても情けない。

アメリカ合衆国の顔色をうかがい様子見を決め込んでいたら、そのアメリカがインドと共に批准に回り条約が発効することになってしまい大いに慌てた日本。国会での承認・批准が間に合わず第一回会議にはオブザーバー資格での参加となってしまいました。

温室効果ガス排出量世界で5番目の日本は、同時に技術を持っていて地球温暖化問題に関して貢献できるはずなのに。嘆かわしい。





*「自分の行いに責任を取らない日本。」「自分にしかできないこと、自分がしなければならないことについての認識が欠けている。」をまたまた痛感しました。

 

*「核兵器禁止条約」最初「核禁止条約」と勘違いして おお すごい! と思いました。 結局 兵器 だったわけだけど、すべての核になったらいいなぁ。

2016年11月5日土曜日

行ってみたかったところ二題 その二 第五福竜丸展示館


  

こちらはつい最近。 東京・夢の島にある「第五福竜丸展示館」にいってきました。  

ビキニ水爆実験・第五福竜丸事件に関してはこれまで幾度も書いてきました。つまりずっと関心を持っていたという証。  まさか水爆実験に巻き込まれた船が第五福竜丸一隻だけという事はないだろうとずっと思っていたのが、地道な調査研究でじつは1,000隻にも及ぶことを知らせてくれた高知の研究者・グループ。ベンシャーンの作品「ラッキードラゴン」も観ました。研究で明らかになったように、もちろんほかにも被害を受けた船・人々はいるんだけれどやはり象徴的な意味合いとして集まりや各種報道で第五福竜丸の名前はどうしても出てきます。静岡県焼津市で毎年行われるビキニデー集会をはじめ様々な集まりでもその名前を聴きました。 それらすべてが第五福竜丸展示館に行ってみたいという思いを増すものでした。中でも昨年一昨年と原水爆禁止運動の一環として集まりで第五福竜丸展示館の人の、特に一昨年の「交通費さえ出していただければどこへでも出かけていきます…」との熱い話は内容もよかったけれど非常に印象に残っています。



東京都江東区夢の島公園の記念館には、山手線などのある地上のホームから東京駅の地下深く深く潜り歩いて歩いて(初めて乗った)京葉線へ。その新木場駅で下車し夢の島公園の一角(外れ)目指して歩いていきました。

初めて目の前にした展示館は建物のまわりにも展示があり、深い焦げ茶色 船を模したのであろう外観で、それ自体特別に大きいものではありませんでした。

早朝の新幹線で新潟を立ち昼過ぎまで用事を足し、ここまで来て朝からの緊張で喉は上ずり乾き何も口にしていなかったことに改めて気づき疲労と空腹でベンチに腰を下ろし一息、持参した食べ物を少し口にすることにしました。

今に至る日々を思い起こすと、少し大げさかもしれないけれど「やっとここまで」という気持ちで簡単に足を踏み入れられない思いというのもありました。



館内、第五福竜丸はイメージしていたものよりずいぶん大きい船でした。  木造船という事は知っていました。舵までも大きな板をつなぎ合わせ、お便所は船体から海に突き出して板で囲われただけのもの(排泄物は直接海に落ちる)でした。

展示は企画によって入れ替わっているのでしょうが、乗組員の遺品、ビキニ水爆実験関連資料、ビキニ後の核実験・放射能汚染をはじめとする数値等の資料。核廃絶に向けた運動を記録した資料・写真の張り出し。 それらの展示は、規模的に「それだけ?」とも言えるし「そんなに!」とも言えるものでした。ただ、この記念館は第五福竜丸自身そして保存し続けてきているという事(運動)に意味があるのだからそれでいいのかもしれません。



 次はまだ行ったことのない国立歴史民俗博物館に行ってみようかな。

 追伸 記念館で土門拳の「生きているヒロシマ」を見つけました。春になったらjさんと一緒に久しぶりに山形県・酒田市の土門拳記念館に行こうかな。

無言館館主 窪島誠一郎さんの思い



安倍首相の憲法改定の企てに対しての無言館館主 窪島誠一郎さんの思い。








「かつて私たちの国は、一部の為政者の誤った国策によって、2千万人以上の外国人の命を奪い、300万人余もの日本人の犠牲者を出した。今も多くの被爆者を苦しめている広島・長崎への原爆投下を招いた。だからこそ私たちは戦争を完全に否定する平和憲法を制定し、この国を再建してきたはずです。戦没画学生たちは今、戦争法を、秘密保護法をどう思っているのか、聞いてみたいのです。」



安保関連法案=戦争法 それに先立ち国民の目と耳を封殺する 秘密保護法 を成立してしまった安倍首相たちの言動に対して

野見山暁治さんの言葉





「美術館は優れた絵を並べる場所ですが無言館は違います。 いわゆるいい作品ではなく、死を予告された若者が、その執行猶予の期間、何を描くか。 無言館に並んでいる絵はその答えです。」



戦没画学生の作品を収集・保存 展示をしている美術館=無言館 の設立にかかわった野見山暁治さんの言葉

ひめゆり学徒隊 宮城喜久子 さんの言葉





                    これからの時代は銃や爆弾ではなく、言葉で平和を築いていく時代。



                             ひめゆり学徒隊 宮城喜久子 さんの言葉

なんともまぁ あきれます


なんともまぁ あきれます

“せい(政)≒生活費” とはよくもまあ言ったものだと思います。

議員報酬とは別に、議員活動 調査活動 活動報告等に使うことを念頭に支給される公的な交付金=政務活動費。  政務活動費の問題はこれまでにもたびたび問題になっていて幾度も改革・改善が図られているけれどいまだに不十分なまま。

 このところこれまでにもまして取り上げられている政務活動費の問題、その発端は6月に富山市議会が自ら議員報酬を60万から10万増やして70万にしたことから。それに対して市民から疑義が出され、地元新聞社記者が富山市議会のドンと呼ばれている自民党議員に取材をした際に取材メモを奪われ押し倒されるという暴力を振るわれるという事件が起きたのです。その後新聞社は情報公開請求をしお金の流れを調べたらおかしなことが次から次へと出てきた、政務活動費の不正受給 報告会や会議に使ったと言いながら実際は行わず飲み食いやまさに生活費に充てていたのです。それが他の議員にも他の議会にも飛び火し、結果として12人もの議員が辞職し選挙が行われるまでにことが大きくなったのです。

で、それが何度も何度も記事に取り上げられるうちに言いやすくという事だったのでしょうか、政務活動費を縮めて政活費。私はこの政をに置き換えてをくっつけて“生活費”が一番ぴったりだと思います。音でいうと同じ発音なんですもの。思わず吹き出してしまうほど言い当ててます。 笑い事じゃないんだけど。

2016年10月30日日曜日

行ってみたかったところ二題 その一 文化学園服飾博物館


    先日「日本人と洋服の150年」という企画展が文化学園服飾博物館で行われているという紹介文を目にしました。

文化学園服飾博物館   前々から行ってみたいところの一つでした。時代・歴史 社会の変遷によっての衣類・衣服の変化(他とへば 女性がズボンをはく・はけるようになった)。地域・民族 文化ごとに特色のある衣装の収集・研究に力を入れているところ、という事でも関心がありました。ただし、この服飾博物館のあるのが東京で、開館している時間が日中のみ、それも平日のという事で気になりながらもなかなか行く機会がありませんでした。実際のところそんな思いで何年かいました。



201411月、沖縄行きの朝 羽田空港集合の時間に間に合うかどうかが不安で前泊することにした際、宿舎に直行するのではなく「これはチャンス!」と文化学園服飾博物館に回ることにしました。

初めての新宿駅南口前は今年(2016)完成した大型バスターミナル、通称バスタの工事中。文化服飾学園までの道自体は道なりの変化はあるもののわかりやすかったけど、街並みは同じようなビルが連なりうっかりすると行き過ぎていたかもしれません。この時は、ちょうど文化学園の大学祭を宣伝する看板が目に留まり大丈夫でしたけど。

駅を少し離れると急に中国語が耳に響いてきだしました。声を潜めることなく普通の大きさで話している人が多いようで日本語よりも耳に響きました。声のする方 脇の方や、一歩裏に目を向けるとお店・高いビルがという風景ではなく普通の住宅が並んでいて思った以上に大勢の人が住んでいるのかもしれません。街の第一印象はまずこれ。

 
念願の文化学園服飾博物館のこの時の展示は「文化学園創立50周年記念 雛人形・雛道具に映し出された雅の世界」でした。雛人形もその表情大きさ いわれ 様々でしたが、雛道具のち密さには目を奪われました。ただしこの展示で一番印象に残っているのは、実に小さい大正天皇がまとったという衣装。これは大正天皇がというより、当時の日本人自体が今の日本人よりも相当に小柄ととらえたほうが正しいようですが時代によって、より大柄になったりより小柄になったりを繰り返しているとのことなので、このころはちょうど小柄だった時代という事のようです。変なことに気が行ってしまいました。 



ずっと「いつか行ってみたい」と思っていたところについに行くことができた事、感謝。

2016年10月25日火曜日

第二回柏崎 平和のための戦争展 ‐ちゃんと知りたい戦争のこと‐


柏崎文化会館アルフォーレ大ホールでのドナルド・キーンさんの集まり2016年9月19日)を終えチラシでもと思ったところで 2階ギャラリー回廊で「第二回柏崎 平和のための戦争展 ‐ちゃんと知りたい戦争のこと‐」というパネル展を見つけました。 

平和のための戦争展(写真と説明)という取り組みがあったということを初めて知りました。 展示(写真と説明)は 「戦争の実相を知り風化させない」のコーナーでホロコースト・イラク戦争・日中戦争勃発・南方諸島での戦い・沖縄戦(本土防衛の捨て石)・新潟県と戦争 「戦争の要因と進め方」では大日本帝国憲法・満州事変・日韓併合 平和への道筋と私たちの努力 というテーマに沿ってその区分をもっと具体的に示す形で写真展示がされていました。 知っている写真 初めて見る写真共に、系統的に見せられると恐ろしさも含めて認識が深まりました。

そしてそれが最近の紛争にも結び付いてしまっているということも知るに至っては、決して大々的な展示取り組みではなかったんだけれど(関係者の立ち合いは全くなく、ただ写真の張り出しと資料が置いてあっただけ)このような取り組みの持つ意義を再認識しました。

ドナルド・キーン・センター 開館三周年記念特別講演会


ドナルド・キーン・センター柏崎 開館三周年記念特別講演会 に行ってきました。(2016年9月19日 柏崎市文化会館 アルフォーレ)ちょうどその少し前にドナルド・キーン・センターに行きご本人も来るというその集まりのことを知り、肉声を聴くいい機会と思いぜひ行ってみたいと思っていたのです。


 当日朝はあいにくの雨、あとで気づいたんですがこの日はいろいろある日でした。一つは年に一度の敬老の日。もう一つは寺泊の魚のアメ横を通った時、あいくの雨とはいえ連休の中海産物を求める観光客でにぎわうところで、反対を押し切って昨年“安保関連法案”が国会で通った日ということで全国的に様々な取り組みがなされる中ここではスタンディングという形で意思表示する人たちがいました。正直なところうっかりしていました。特にどこのグループにという私ではありませんけれど、こんな悪天候の中で頭が下がります。

 

 特別講演会は、今年2月にドナルド・キーンさんの「石川啄木」が刊行されたということもあって、「石川啄木~最初の現代日本人~」としてドナルド・キーンさんと池田功(明治大学大学院教授・国際啄木学会会長)さんによる記念対談(!)、この池田さんによる基調講演「石川啄木の日記を読む ~キーン先生の啄木日記論を紹介しながら~」そして合唱という構成で行われました。

 石川啄木については “たはむれに母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず” にその絵を思い浮かべ “友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て 妻としたしむ” に共鳴したりするものの一般の人たちと大して変わらない知識しか持ち合わせていない私ですが、他の人が時の日本の社会(社会問題 事件)を取り上げたときに石川啄木の言葉を引いてくることに幾度も接する中、その言葉が出てくる背景(石川啄木の)をいつか知りたいと思っていました。



 基調講演は、理解しやすい口調でさすがに国際啄木学会会長という内容で網羅的に理解が進みました。その中からいつか知りたいと思っていたことに関して 「~啄木は早熟な青年であった。19歳で結婚し翌年には子供が生まれた。この 早くに家庭を持った 家族を養わなければならないということが(困窮生活)石川の作品に影響を与えた。~」が、社会的(問題・事件)発言につながっていたということがわかり収穫でした。

 記念対談は内容以前に、いくら第2次世界大戦前から日本語にかかわってきた人とはいえ日本語で対談する必要があったのだろうかという感を強くしました。内容を問うならば母国語で話してもらったほうがよりいいものになったのではという印象を持ちました。言い方は悪いかもしれないけれど、敬老の日ということもあってか良いおじいちゃんというような持ち上げ方のような気がしました。でもドナルド・キーンさんは十分現役の人だと思うんですけどねぇ。

2016年10月19日水曜日

今年2016の手作業


夏休みに縁のなくなった私なのになぜか78月にこだわって参加した講座のことを書き留めておこうと思っていました。  一つ一つではないけれど

そう思って振り返ってみたら今年は1月の蔓網に始まり78月はもちろん9月も10月も、どこで区切ろうかと思いましたけど11月にも予定が入っていまして悩んでしまいました。

すんだもの

1月 蔓編み講座  食育花育センター 

7月 アンギン編  津南・なじょもん

8月 縄文編み   馬高縄文館 

   籐網     アークオアシス

9月 カラムシ撚り 津南・なじょもん

   一閑張り   西蒲区福井・じょんのび館

10月 アンギン編  津南・なじょもん



もともと布に関心はあるほうでした、以前から布・端切れなどを鑑賞しに行ったりしていました。少しだけれど機(高機)を習ったりもしました。染にも関心がありました。

染は染料を使って定着液を使うような染だけでなく泥染なんてものも知りました。染めるというイメージのものから、色(汚れ?)が落ちないなんてものまで。「こんなでもいいのかぁ」とか「こんなのもありかぁ」楽しくもあり目から鱗というか、楽しい日々でした。



もうずいぶん昔のことになりますが県立歴史博物館の講座で日常着・作業着のこと、民芸運動や民俗学にも触れ 宮本常一さんの調査方法には影響を受けました。

昔は布が今では想像できないくらい貴重、それ以前に布そのものがなかった時代のこと 逸話も知りました。もうぼろぼろの端切れでももらってきて刺し子で印半纏に仕立て上げ、 海で遭難して見つかった時はもう顔かたちがよくわからないというときでもその印半纏で自分の夫とわかるようにしたんだという逸話、生まれてすぐ死んでしまった嬰児を埋めるときせめて布で得くるんでやりたかったが自分の身体の一部を覆うだけの布しかなくてそれがかなわなかったのをいつまでも悔やんでいるおばあさんの逸話などが忘れられません。

そのころ“アンギン”という言葉を知りました。今では〇〇上布なんて言ってすごく高価な織物もありますが、日常着・野良着は残っていない、今のうちに収集・保存が必要だという考えは前より広まってきているものの、高価な着物は残っていても日常着・作業着は酷使され傷んだらつぎを当てどうしようもなくなればその作業着が今度は当て布となって再利用されるという運命をたどったのでしょうからなお残っていないのでしょうね。普通にはそんな作業着が貴重だとか、ましてや美しい(用の美?)なんて思いもよらないことだったでしょうから。



*ところで “アンギン”ってそういう布かと思っていたら道具の名前でした。そして「これは編みであって織ではありません」と最初に言われた。こういうこと一つでも新しく知るということがうれしいんですよね。

いまだ変わっていない現状に意味を持ち続けているボブ・ディランさんの詩


今年(2016年)のノーベル文学賞受賞者はボブ・ディランさんです。ということを聴いたときえっと思いました。(その後の経緯のいろいろは置いときます)改めて考えることなく文学賞だから作家が対象になるものだと思い込んでいました。 

今でもすらすらと英語の歌詞が理解できるわけだはありませんが、生き方も含めてその姿勢そして時代を反映したバックに映される映像とともに聴こえてくる曲の心地よさにひかれていました(他のプロテストソングと言われた数々の名曲とともに歌詞の要約は目にしていましたが)。

受賞発表後さまざまに伝えられる見解を自分なりに咀嚼し伝えられる“歌詞”を改めて読んでみると曲がついていなくとも十分に内容のあるものだと気づきました。

 平和と普通の生活を求めて軍事基地建設に異を唱え続けている沖縄の人たち、いまだ終息のめどもつかない原発事故そして危険な核を使っての発電に待ってくれと言っている人たちの声を一向に聞かない人たちの存在ことを思うとこの歌・詩がいまだに古くならず力・意味を持っていることがよくわかります。いまだ過去のものにならないというのは問題だと思いながら。

2016年10月16日日曜日

ほんとにあきれる次期アメリカ合衆国大統領共和党代表候補ドナルド・トランプ氏 と ほんとは危ない安倍首相


まったくひどいものだと思います。ほんとにあきれます。何ってアメリカ大統領選に共和党から出ているドナルド・トランプ氏のこと。

前からもしトランプ氏がアメリカ合衆国大統領になったら(核兵器のことを頭において)恐ろしいことだと思っていたけれど、主義・考え方以前に人間としての資質に問題ありということが次から次へと公になるのでさすがに一時は党の候補ということで渋々ながらも支持した人も支持を撤回している。なぜこんな人が熱狂的な人気をえ大統領候補になりえたのかと思ってしまいます。

同時に思いました。ほんとに解決するために取り上げるのではなく、受けることだけを狙い扇動の手段として利用しているポピュリズム。問題の本質から目をそらせるということでは罪深いことだと思っています。でも実際アメリカ以外にもフランス イタリアをはじめヨーロッパ各国でもこの動きが社会の安定化の上で大きな脅威となっているのが現実です。

と、ここでまた思いました。私から見れば安倍首相も十分危ないと思うけれど日本国内の一般にはそれほどには取られていなくて、各種法案や行政運営で大変なことを行っているのにマスコミによる支持率調査では高い数字を維持しているのかということ。これはマスコミ報道の現在が非常に問題ありだからなんだけれど、日本以外からはどう見られているのかというと、アメリが合衆国議会で演説した時には自分でも発言していたから本人は海外からはどう見られ評価されているかを一般の国民よりはるかに認識し自覚しているようだけれど、平和問題 社会の安定ということでは危ない人だと思うんだけれどなぁ。

2016年10月7日金曜日

O2 14-11-8  石敢當



年に何回か送られてくる旅行会社発行の新聞に目を通していたら、沖縄の琉球新報社の人たちが「私たちが沖縄の石敢當になりたい」と始めた取り組みのことがほかの沖縄の話題とともに紹介されているのが目に留まりました。

ちょうど視線の行った先に 「~T字路の突き当りや辻、三叉路に立てる魔よけのこと~」 という文字があったのです。 ちょうど先日、ラベル・沖縄平和ツアーの「ヒンプン」の表題で書いたことじゃないですか。そのときは名前が書けなくて行為・発想「魔物はまっすぐしか進めないのでわざと突き当りを設けている」ということを書きましたが、そのものずばりの言葉・名称がそこに書いてあったのです。

 

私が“悪鬼”と書いたものは 沖縄では“マジムン” まっすぐ進む(しか進めない)マジムン除けは “石敢當”(いしがんとう)というのだそうです。



いろいろなことに興味関心を持っていて、時にはもっと一つのことを深めるほうがいいのかなぁと思ったりもしますが、まじめに向かい合っているとたまには神様がこんなプレゼントをしてくれるのですね。 

2016年10月6日木曜日

F2 16-3-9 堪える暑さ


フィリピンは1年を通して気温・湿度の高い熱帯モンスーン型気候で年間平均気温は2627℃。雨期(611月)と乾期(125月)となっています。それでいうと、初めて行った10月は雨季の時期に入るんですね。

 フィリピンには10月と34月の3回行きました。気温はいずれも30度から上が続き暑い暑い毎日、でも身体への応え方はそれぞれでした。



 初めて行った10月は、暑いことを覚悟して行ったせいか意外と大丈夫でした。日本(新潟)との気温差も10度前後で収まっていましたし。といっても暑いことは暑くて、特別動くわけでもないのに顔にも手のひらにも自然に汗をかくくらいでした。ただし私が寒さに慣れているように、地元の人たちは私よりはるかに暑さに慣れているのでしょう、私が手のひらに汗をかいている時でも汗をかいていませんでした。その違いに少し考えるところがありました。

 
2度目は3月。初めての10月が覚悟していたほどでなかったので「まだ3月だし~」という気持ちで出かけてみたら これが堪えました。  

雪こそ降らなくなったとはいえまだまだ寒い日の続く3月の新潟(最高でも10度を越さない日もある)からいきなり気温30度越えのところに行ったからものだから身体が暑さに慣れていなくて堪えたんでしょうねバテバテでした。 じとじとまではいかないけれど湿気もあったし、治療するときのようなホットパックでくるまれているような、バテ気味の体にはそのパックの重みさえ感じる暑さでした。地元の人も顔に汗をかいていたから暑いことは暑い時期なんでしょうが。

 3度目になる4月は、3月の経験もあったし新潟も春めいてきていたのでいくらかよかったようにも思いました、でもこの時も暑かった~  期間も長かったし上着こそはおらなかったものの長袖長ズボンをまとわなければならない時もあったし、電気代が高くて家の人は全然使ってなかったエアコンのある部屋で日中の暑い盛りに何度かそこで一休みさせてもらいました。

帰国する間際に聞きました「今が一番暑い時期なの?」って。答えは「一番は6月くらいかなぁ」ですって! それはどれほど堪える暑さなんでしょう




*住宅事情にもやられました。 夜も更けてから、そして朝方は表へ出るといい風が通るんです。でも寝ようと思って家の中へ入るとこれがもう蒸し風呂状態、扇風機2台を一番強く回しているんだけど来るのは熱風。窓は片側にしかない長屋構造の上に、防犯上仕方ないのかもしれないけど夜は唯一の窓もドアもしっかり閉めて寝るもんだから風が抜けない全然抜けていかなくて眠れません結果疲れが取れません。一部屋だけ、窓枠にはめ込む形の小型のエアコンがあるんだけど電気代が高くただ あります というだけ。それもあって 疲れが取れない暑さにやられる というパターンになったのかもしれません。

2016年10月2日日曜日

F3 16-4-20 制服 おまけ




手続きで訪れたところで正装としても通用するバロンを着ている男性と会いました。スラックスやワイシャツ・ブラウスをまとっている人も目にしました。 

日常的にはTシャツ短パンそしてサンダルが多くとも時によって、そしてその差は拡大する一方の(階層)格差を超えると・その場によって服装も雰囲気も随分違うんだろうなぁと感じます。同じ空の下・国に息をし暮らしながらも目に見えない“結界”が存在することは知っています。その拡大はどの国・社会でも大きな問題で、フィリピンでも変わりません。もともとあった格差が一段と拡大していると言い切ってもいいと思いました。




余談になりますが、一見涼しそうに見えるバロン、日本の絽の着物と同じで本人は見た目ほどにはどうなんでしょうか。下に着て上に重ねて羽織るわけですから。

話ではパイナップルの繊維を使って風通しのいいように作られているとのことですがどうなんでしょうか。

バロン 式のときに羽織ってみようと頼んでおいたのですが用意されていなくて試せませんでした。ショッピングモールで扱われているところも見かけたんですが、一枚買い求めるほどにでもない感じだったし。日本にいてはそうそうできないことなので、少し粘ってそでを通してみればよかったかな。少し残念です。これからもチャンスはあると思いますけど。

2016年10月1日土曜日

F3 16-4-19 服装・制服




見かける服装は圧倒的にTシャツと短パン。だけど印象に強いのは制服姿の人たち。

空港や領事館にいた人とショッピングモールの入り口でセキュリティチェックをしていた人、街中の銀行や何のお店かまでわからなかったけれどその前にいる人も同じ服装だったので公的な警察官なのかガードマンなのかまでわからなかったけれど、姿勢も良いしかっこよささえ感じました。(映画で見るようなショットガンを手にしている人もいました。)

 そのほかにも、ショッピングモールに入っている様々なお店。ファストフードのお店、食品スーパー。小さなお店であっても働いている人はそろいの制服というところもありました。

制服を着た人たちはいずれも「熱くないですよ 汗なんかかいてませんよ」て感じですっきりしていました。ちゃんと服を着て姿勢をよくすると、気温が下がるわけでもないし暑いことは暑いんだけど意外といけちゃうんだけどちょうどそんな感じなんでしょうか。

それに、もしかしたら制服が好きなのかもしれないなぁと感じました。制服を着ている自分をかっこいいと思っているんじゃないかな、だからなおさらかっこよくなるのかなと思いました。